舒邵

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舒 邵(じょ しょう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。兗州陳留郡の人。字は『三国志』呉志孫賁伝によれば仲膺、『後漢書袁術伝によれば仲応。兄は舒伯膺(名は不明)。子は舒燮。

事跡[編集]

姓名 舒邵
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 仲膺または仲応(字)
本貫・出身地等 兗州陳留郡
職官 阜陵県長→沛国相
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁術
家族・一族 兄:舒伯膺 子:舒燮

袁術の配下。『三国志』呉志孫賁伝によれば、兄の舒伯膺の親友が殺された際に、舒邵がその仇を討った。その後、兄弟で罪を庇い合ったため2人とも赦された。これにより、天下にその名声が響き渡ったという。舒邵は、袁術の下で阜陵県長に任命された。

『後漢書』袁術伝では、「舒仲応」として登場する。可能性としては舒邵と別人ということもあり得るが、本記事では舒邵と同一人物として扱う。舒邵は、袁術から沛国相に任命されている。袁術は穀物10万斗を兵糧としていたが、舒邵はそれを尽く飢えた民衆に分け与えた。それを知った袁術は、舒邵を処刑しようとしたが、舒邵は「死は覚悟していました。私一人の命で、民衆の塗炭の苦しみが救われるならそれでも良い」と言い放った。それを聞いた袁術は「なぜお前一人で、天下の名声を独り占めしようとするのか」と返したという。結局この後、舒邵が赦されたか、処刑されたかは不明である。

その子である舒燮は、において零陵郡重安県長となっている。潘濬に法に照らし合わせて処刑されかけた事があったが、孫鄰が舒邵・舒伯膺兄弟の事を持ち出して諭した為、処刑は取り止めとなり命を長らえている。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献[編集]