耶律忒末

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耶律 忒末(やりつ とくまつ、? - 1226年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

概要[編集]

耶律忒末の父の耶律丑哥は遼朝に仕えて都統にまでなった人物で、遼朝が金朝に滅ぼされた時には最後まで忠義を崩し、夫婦ともに亡くなった。金朝はむしろその忠義を憐れみ、生き残った忒末も父同様に都統に任じたという。しかし、金朝末期にチンギス・カン率いるモンゴル軍が南下を始めると忒末は3万の軍勢を率いてこれに降り、忒末は帥府監軍、息子の耶律天祐は招討使の地位に任じられた。モンゴル軍への加入後、忒末は史天倪に従って趙州の平棘・欒城・元氏・柏郷・賛皇・臨城らの諸城の攻略に携わり、5千余りの民を配下に入れた[1]

1221年辛巳)、西方の中央アジア遠征に向かったチンギス・カンは太師ムカリに東アジア方面の計略を任せ、忒末もその指揮下に入って洺州等路征行元帥の地位を授けられた。この頃、忒末と耶律天祐は邢州・洺州・磁州・相州・懐州・孟州らの諸城を攻略する功績を挙げ、ムカリは忒末を真定路安撫使・洺州元帥の地位に任じた。忒末は更に沢州・潞州に兵を進めて6千戸余りを降らせたため、この功績により河北西路安撫使・兼沢潞元帥府事の地位に就いた。しかし、1222年壬午)には既に高齢であったためか息子の耶律天祐に地位を譲って真定に隠居した[2]

隠居後、1225年乙酉)には一度モンゴルに降った武仙が真定で叛乱を起こしたが、この時忒末は夜半に真定を出て武仙の手から逃れている。ところが、1226年丙戌)に勢力を盛り返した武仙は再び真定に攻撃を仕掛け、史天沢は藁城に撤退し、忒末とその妻の石抹氏・家奴隷らで真定に居住していた者たちは今度こそ武仙の捕虜になってしまった。武仙は忒末を人質として耶律天祐に投降を迫ったが、忒末は密かに耶律天祐に伝言を託し、「賊の武仙が狡猾であることは汝も知っているだろう。わが身の安全を理由に敵の策に陥るな。モンゴルに忠節を尽くせ。(モンゴルへの)忠と(父母への)孝は両立させる事は難しいが、 汝が忠義を固守し国家の大計を失わなければ我も甘んじて刀を受けよう」と伝えた。これを聞いた耶律天祐は慟哭しつつも手の経緯をモンゴルに報告し武仙を攻撃したため、怒った武仙の命により忒末の家族郎党18人は尽く殺されてしまった[3]。我が身を省みずモンゴルに忠節を尽くした事蹟を賞して、『元史』は忠義伝に耶律忒末の列伝を載せている。

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「耶律忒末、契丹人。父丑哥仕遼為都統、遼亡、不屈節、夫婦倶死焉。金主憫其忠義、授忒末都統。歳甲戌、国兵至、金徙于汴、忒末及子天祐率衆三万内附、授帥府監軍、天祐招討使、従元帥史天倪略趙州平棘・欒城・元氏・柏郷・賛皇・臨城等県、籍其民五千餘、置吏安輯焉」
  2. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「歳辛巳、太師木華黎統領諸道兵馬、承制加忒末洺州等路征行元帥、与天祐略邢・洺・磁・相・懐・孟、招花馬劉元帥、有功。木華黎又承制授忒末真定路安撫使・洺州元帥、進兵臨沢・潞、降其民六千餘戸、以功遷河北西路安撫使、兼沢潞元帥府事。壬午、致仕、退居真定」
  3. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「明年、仙復犯真定、天沢潜師出藁城、忒末与其妻石抹氏、及家孥在真定者、皆陥焉。仙遣其僕劉攬児、持書誘天祐曰『汝能誅趙州官吏以降、当活汝父母、仍授汝元帥。不爾、尽烹之』。忒末密令攬児語天祐曰『仙賊狡猾、汝所知也、毋以我故、堕其機穽、以虧忠節。且忠孝難両全、汝能固守、不失国家大計、我視刀鋸甘如蜜矣』。天祐慟哭承命、馳至藁城、以賊書示天沢。天沢曰『王陵之事、照耀史冊、汝能遵父命、忠誠許国、功不在王陵下』。天祐乃趨還趙壁、率衆殊死戦、仙怒、尽殺忒末家一十八人」

参考文献[編集]

  • 元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝
  • 新元史』巻135列伝32耶律忒末伝