石塚宗義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石塚 宗義(いしづか むねよし、? - 応永21年(1414年))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士佐竹氏9代当主佐竹義篤の子で、次郎、掃部助、越後守。10代当主佐竹義宣(義香)の弟。

略歴[編集]

那珂西郡石塚郷、久慈郡西遠野村、多珂郡桜井郷、多珂郡木佐良村を譲られ、石塚氏と称したとされ、今も残る佐竹一族の中では小場氏と並んで最も古い家系である。代々、一族で婚姻を繰り返し、庶子家自体も、第二次的な庶子家を分家させて、佐竹氏は大規模な物領制を形成したという。 正平17年(1362年)に石塚城を築いたと伝わる。

兄弟[編集]

「寛政重脩諸家譜の第1輯」によると、義宣とは同じ母(小田知貞の娘)とされる。異母兄弟には兄に小場義躬(母は濱名氏の娘で、小場氏の養子となる)、弟に乙王丸、大山義孝藤井義貫(義実)がいる。乙王丸は幼い時に死亡したとされる。 女きょうだいは3人いるが、全員含めてどんな順番に生まれたかは不明。うち1人は義宣、宗義と同じ母で、小田氏某に嫁いだとされ、他2人は中前(なかのまえ)、乙前(おとのまえ)と称し、嫁ぎ先など詳細は不明。

出典[編集]