畢祖暉

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畢 祖暉(ひつ そき、生没年不詳)は、北魏の官人・武人。本貫東平郡須昌県

経歴[編集]

畢元賓と元氏のあいだの子として生まれた。奉朝請から鎮遠将軍・前軍将軍・直後に転じた。正始年間、龍驤将軍・東郡太守に任じられた。入朝して驍騎将軍となり、征虜将軍の号を加えられた。後に渤海郡太守の任を代行した。熙平年間、潁川郡太守に任じられた。神亀初年、右将軍豳州刺史として出向した。後に入朝して平東将軍・光禄大夫の位を受けた。524年正光5年)、豳州の民衆が反乱を起こし、宿勤明達らの反乱軍を引き入れると、州城に迫った。祖暉は以前の刺史在任中に民情を得ていたとの評価があって、再び平西将軍・豳州刺史に任じられ、仮の安西将軍となり、別将として反乱軍を討った。祖暉は反乱軍の包囲を破って、州城に入城した。525年孝昌元年)、北海王元顥が救援に現れ、州城の包囲はようやく解けた。祖暉は州城を守った功績により、新昌県開国子に封じられた。527年(孝昌3年)、蕭宝寅涇州莫折天生に敗北し、祖暉は豳州を落とされて華州に逃れた[1] ため、敗戦の罪を問われて官爵を剥奪された。まもなく仮の征虜将軍となり、豳州の事務を代行した。528年建義元年)、刺史の官と爵位を回復し、撫軍将軍の号を加えられた。永安年間、祖暉は大嶺柵から豳州の州城に入ることに成功した。叱干麒麟の率いる反乱軍を太子壁で撃破した。宿勤明達の率いる反乱軍の攻撃を受け、祖暉の兵は糧食の不足に悩んだ。援軍も到着せず、反乱軍に敗れて、祖暉は戦没した。享年は50。

子女[編集]

  • 畢義勰(長男、新昌県子、東魏武定年間に開府中郎となり、北斉が建国されると爵位を降格された)
  • 畢義雲(尚書騎兵郎中)

伝記資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『魏書』巻9粛宗紀の孝昌三年正月の条では、「豳州刺史畢祖暉、行台羊深並奔退、祖暉於陣歿」とあり、このとき祖暉が陣没した記述が見え、『資治通鑑』巻151梁紀7もこのとき「豳州刺史畢祖暉戦没」したものとする。しかし『魏書』巻61畢衆敬伝附伝の祖暉伝は永安年間に戦没するまでの閲歴を伝えている。