田村長衞

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田村 長衞(たむら ながもり、文禄4年(1595年[1]-正保4年2月4日1647年3月10日))は江戸時代初期の旗本寄合席奥医師田村安栖家の分家である旗本田村氏当主。は長衞。通称は助太郎。父は田村安栖法印長頥。兄は田村長祇(安栖法印、治部卿)、弟は長矩(傳右衛門)。妻は石川小隼人の娘。子は娘(会津藩士丹羽氏の妻)、娘、田村長久、田村顕当など4男3女。

初代走水奉行や二の丸留守居などを勤める。

生涯[編集]

実家は医師の家系であり、父は小田原城下に住んで後北条氏に医師として仕えた後に、江戸幕府の奥医師として徳川家康徳川秀忠に仕えた。実家の田村氏は本姓丹波氏であったが、長衞と弟の長矩は本姓坂上氏を称して武家として分家する。

秀忠に仕えて、小姓を勤めて蔵米300俵を与えられる。後に御膳奉行となり、寛永11年(1634年)に200石加増される。寛永13年(1636年)から江戸城二の丸勤務となり、後に二の丸留守居となる。また、長男の長久(九右衛門)が寛永15年(1638年)に書院番士となるが、寛永17年(1640年)に早世している。

正保2年9月23日1645年11月11日)に走水奉行に就任し、正保3年12月31日(1647年2月4日)に布衣を着すことを許可される。

それからほどなく正保4年(1647年)に死去。享年53。墓所は下谷広徳寺。跡は次男の顕当が継いだ。また、長女は保科正之家臣の丹羽氏の妻となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜に記載の享年からの逆算

参考文献[編集]

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬)
    • 寛政重修諸家譜 巻第千百八十九
    • 寛政重修諸家譜 巻第千百九十