狐突

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狐 突(こ とつ、? - 紀元前637年)は、中国春秋時代大夫。姓は。氏は。字は伯行。晋の文公の母方の祖父である。

生涯[編集]

狐突は、唐叔虞の子孫が零落しての枝族となったものである。晋の武公のときに出仕し、武公の子の献公が狐突の娘を娶り、重耳(文公)を生んだ。狐突の子の狐偃狐毛は、いずれも文公の家臣である。驪姫の乱によって晋が混乱に陥ると、狐偃が重耳に対して亡命を勧め、以後、重耳は19年にわたって国外での亡命生活を送ることとなった。重耳は、まず北狄において亡命生活を開始したが、驪姫の乱後に即位した夷吾(恵公)が重耳の暗殺を計画すると、重耳とその家臣たちは、中原において亡命生活を送ることとなった。

恵公の子の懐公は、即位すると、狐突に命じて狐偃と狐毛を召喚しようとした。しかし、狐突は、子に対して忠義を教えなければならないといって懐公の命令に背いたため、懐公は、狐突を殺害した[1]

脚注[編集]

  1. ^ 春秋左氏伝』「僖公二十三年」:九月,晋恵公卒。懐公命無従亡人。期期而不至,無赦。狐突之子毛及偃,従重耳在秦,弗召。冬,懐公執狐突曰:「子来則免。」対曰:「子之能仕,父教之忠,古之制也。策名委質,貳乃辟也。今臣之子,名在重耳,有年数矣。若又召之,教之貳也。父教子貳,何以事君?刑之不濫,君之明也,臣之願也。淫刑以逞,誰則無罪?臣聞命矣。」乃殺之。卜偃称疾不出,曰:「『周書』有之:『乃大明服。』己則不明,而殺人以逞,不亦難乎?民不見徳,而唯戮是聞,其何後之有?」

参考文献[編集]