河野高嘉

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河野 高嘉
時代 江戸時代初期
別名 傅之丞
墓所 興岳寺
主君 徳川家
氏族 伊予越智氏
父母 父:河野通次、母:河野通玄の娘
原正胤の娘
娘(榊原長行の妻)、娘(川口宗長の妻)、河野通堅、河野通純、河野通昌、河野通倫、河野通村、河野通有
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河野 高嘉(こうの たかよし)は、江戸時代武将徳川家家臣。八王子千人同心9人の千人頭の一家。

略歴[編集]

河野通次の子として生まれる。寛永9年(1632年)父の遺跡を継いで千人頭となる。

承応元年(1652年)より日光山火防の備えとして同僚2人と各隊下の武士100人を率いてその地に赴いた。

明暦3年(1657年)、同僚・石坂正俊の不祥事に連座して躑躅間詰から降格され、御納戸前廊下詰となった。

脚注[編集]


参考文献[編集]

  • 賢甫義哲、「長楽寺永禄日記」、続群書類従完成会、2003年
  • 開沼正、「武蔵国多摩郡における在郷武士について : 八王子千人同心の研究」、佛教大学、2007年
  • 興岳寺
  • 寛政重修諸家譜』巻第千三百七十五

関連項目[編集]