梅村翠山

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梅村 翠山(うめむら すいざん、天保10年11月21日1839年12月26日) - 明治39年(1906年6月18日)は幕末から明治時代銅版画家石版画家

来歴[編集]

上総国九十九里の生まれ。姓は小川、後に梅村を称す。名は亥之吉。翠山、夷白堂、慶岸堂、不識庵と号す。始め江戸において木村嘉平に木版を学び、京都に出て松本保居銅版画を学んだ。文久初年に初めて木口木版を作った。明治4年(1871年)に神田に夷白堂を開き、紙幣寮銅版官札の製版に努めている。夷白堂は後に慶岸堂と改名、その後、明治7年(1874年)、アメリカから石版工のアメリカ人ポラード及びボヘミア人スモリックを招聘して京橋区銀座4丁目14番地に銅版石版を扱う彫刻会社を起業した。明治12年(1879年)、この彫刻会社は竹中国勝の国文社に合併される。晩年には廃業して宗教家となった。享年68。

参考文献[編集]