朱友能

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朱 友能(しゅ ゆうのう、? - 923年)は、後梁の太祖朱全忠の甥。朱全昱の次男。

叔父から恵王に封じられる[1]918年に反乱を起こしたが敗れた[2]。数カ月後に降伏し[3]末帝からは赦され、房陵侯に降格されただけで済んだ[4]

その後、朱友誨が乱を企てたことで都に召還されて三兄弟は幽閉された[5]。後、後梁が滅ぶときに殺害された[6]

脚注[編集]

  1. ^ 新五代史「三子皆封王:友諒衡王,友能惠王,友誨邵王」
  2. ^ 旧五代史』巻十・梁書十「末帝本紀下」「夏四月,陳州刺史惠王友能反,舉兵向闕。帝命將出師逆撃,敗之。友能走保陳州,詔張漢傑率兵進討。」s:zh:舊五代史/卷10
  3. ^ 旧五代史』巻十・梁書十「末帝本紀下」「秋七月,陳州朱友能降。」s:zh:舊五代史/卷10
  4. ^ 新五代史「末帝赦之,降為房陵侯。」
  5. ^ 新五代史「友誨為陝州節度使,欲以州兵為亂,末帝召還京師,與友諒、友能皆被幽囚。」
  6. ^ 新五代史「梁亡,荘宗,皆見殺。」

参考文献[編集]