景公 (宋)

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景公(けいこう、? - 紀元前469年)は、春秋時代の君主(在位前517年 - 前469年)。姓は子、名は欒、あるいは頭曼。元公の子。

元公の太子となった。紀元前522年、華氏が反乱を起こすと、欒は人質にされたが、華亥らがに亡命するにあたって、解放された。

紀元前517年、元公が死去すると、宋公として即位した。紀元前506年、召陵の会盟に参加した。紀元前501年、景公は楽大心をに派遣して盟を結ばせた。楽溷(子明)が楽大心を誣告した。紀元前500年、楽大心が追放され、に亡命した。公子地や公子辰が陳に亡命した。紀元前496年と洮で会盟した。紀元前495年の罕達の攻撃を受け、老丘で敗れた。紀元前491年、小邾子を捕らえた。

紀元前488年、鄭が晋から離反したため、景公は皇瑗を派遣して鄭に侵入させた。さらに曹を包囲し、翌年に曹を滅ぼして、曹伯陽を捕らえた。紀元前486年、鄭軍が雍丘を包囲したため、景公は皇瑗を派遣して鄭軍を撃退させた。

景公は桓魋(向魋)を寵愛してその増長に悩まされ、紀元前481年にその粛清を図った。桓魋は曹に入って反乱を起こした。景公は向巣を派遣して曹を攻めさせた。桓魋はに逃れ、向巣はに亡命した。

景公には子がなく、公孫周の子のを養子とした。紀元前469年10月、空沢に出遊して、連中館で死去した。

参考文献[編集]

  • 史記』宋微子世家第8
  • 春秋左氏伝』昭公20年、25年、定公4年、9年 - 10年、14年 - 15年、哀公4年、7年 - 9年、14年、26年