文恭妃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

恭妃文氏(きょうひ ぶんし、1500年代? - 1532年8月10日嘉靖11年7月10日))は、嘉靖帝の妃嬪。

経歴[編集]

庶民の文栄と郭氏の娘として生まれる。嘉靖元年(1522年)、陳氏(後に皇后となった)と張七姐(後に順妃、皇后となった)と共に、選抜されて後宮に入り、3月に恭妃となった。父の文栄は正四品錦衣衛帯俸指揮僉事に任じられた。

嘉靖7年(1528年)、陳皇后が嫉妬するように流産して崩ずると、張七姐は代わって皇后に立てられたが(後に廃される)、文恭妃は皇帝の怒りを買い、別宮に移された。嘉靖11年(1532年)7月10日、文氏は失意のうちに死去した。享年は不明だが、30歳以下と考えられている[1]。没後、悼隠とされ、の礼で金山に葬られた。

脚注[編集]

  1. ^ 明の后妃の選抜では、年齢は14歳から18歳までが最も好ましいとされた。

伝記資料[編集]

  • 『明世宗実録』
  • 『宛署雑記』