志水忠宗

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志水 忠宗(しみず ただむね、天正2年(1574年) - 寛永3年1月12日1626年2月8日))[1]は、徳川家の家臣、尾張藩家老甲斐守石清水八幡宮の祀官家紀姓田中家の分家である京都正法寺志水宗清の子。母は東竹甲清の娘・龍雲院。

経歴[編集]

姉の相応院(お亀の方)が徳川家康の側室となったことから仕え、関ヶ原の戦いでの戦功から500石を知行される。

甥の徳川義直が尾張藩主となると、これに従って大高領5000石を与えられた。名古屋城築城後は城内西の丸の館に居住する。大坂の陣では城代として留守を守った。それまでの功に合わせて5000石を加増され1万石となり、長男の忠政に7000石、次男忠次に1000石、三男忠知に2000石を分知した。

元和2年(1616年)、志水家は廃城となっていた大高城に居館を築き、明治まで続いた。

脚注[編集]

  1. ^ 『尾張群書系図部集』