常遇春

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開平王・常遇春 /『晩笑堂竹荘畫傳』より

常遇春(じょう・ぐうしゅん、1330年 - 1369年)は代初期の中国の武将。字は伯仁。

事績[編集]

懷遠の出身。容貌は魁偉で勇力は卓絶し、射術を得意とした。はじめ劉聚に従って盗賊をしていたが、劉聚は大業を興すことができないと察して見切りをつけ、1354年に明の太祖(朱元璋)が兵をひきいて和陽にいたるとそこへ赴き、麾下に入った。渚磯の戦いでモンゴル軍を破り、采石を占領・平定した。その功により総管都督となる。モンゴルが再度、采石を襲うと筏を操らせてこれを大いに破り、ついで溧陽・集慶へと攻め進んで功績をあげた。

元帥・徐達に従って鎮江・常州を取り、呉の兵が徐達を牛塘で包囲したときはこれを救援し、中翼大元帥に任命された。寧国を攻めていたときに流れ矢にあたるが、そのまま戦って勝利し、別に水軍を組織して池州を下す。

行省都督馬歩水軍大元帥となり婺州を平定、枢密院事となり衢州を攻囲したときには奇兵を使って突入し、兵1万人を捕虜とした。僉枢密院事となり杭州を攻めたが、戦果なく召還された。朱元璋が陳友諒を杭州に追うために留守を命じられたさい、法を厳格に執行し軍民ともに粛然とし逆らう者がなかった。行省参知政事に出世し、安慶を占領する。

常遇春・徐達とならんで功績のある宿将・邵榮が反乱を起こしたときには、朱元璋は死は免れさせたい意向であったが、常遇春はあくまで叛臣は処断すべきであると主張した。また羅友賢張士誠を破る。太祖が呉王の位につくと平章政事となり、ついで鄂国公に封ぜられ、副将軍を拝命し、太子太保を兼ねるなど、ますます重んじられた。

1368年、徐達とともに兵をひきいて北征し、太原を攻めてモンゴルの将・擴廊帖木兒を遁走させ、也速を全寧に破りついに開平を占領した。モンゴル帝を北方に追い払ったので、いったん軍をまとめて帰る途中、柳河川で病没する。享年40。太祖はこの知らせを聞き大いに嘆き、葬列が龍江に達するとそこまで出かけて親しく喪の儀式を執行した。「開平王」を追封され、諡は「忠武」という。

参考[編集]

  • 『明史』125
  • 『明史稿』116
  • 『皇明通紀直解』206
  • 『国朝献徴録』5
  • 『国朝名世類苑』1
  • 『今献備遺』1
  • 『明名臣言行録』1
  • 『皇明名臣琬琰録』1
  • 『皇明名臣言仁録』1
  • 『皇明人物考』1
  • 『皇明開国功臣録』1
  • 『本朝人物攷』14