小林彦五郎

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小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、生没年不詳)は、日本の教育者聖職者。立教女学校(現・立教女学院)校長、立教高等女学校校長、立教大学元教授、日本聖公会の聖職者[1]。財団法人聖路加女子専門学校(現・聖路加国際大学)理事。

人物・経歴[編集]

大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、テオドシウス・ティングの薫陶を受ける。1886年(明治19年)3月には、授業日数を増やすなどの要求から生じた同校の学生運動では、元田作之進(後の立教大学初代学長)とともに急先鋒となり、改善を求める運動を行った[2]。同1886年(明治19年)にヘンリー・ページ(Henry D. Page)よりキリスト教の洗礼を受けた[3]

アメリカに留学し、マサチューセッツ州のエピスコパル神学校(Episcopal Divinity School)で神学を修める[4]

帰国後、青森の聖アンデレ教会の牧師となる[4]

1896年(明治31年)から、1901年(明治34年)にかけてジョン・デヴィスの『教會史要』4巻を山縣雄杜三とともに訳した[5]。『教會史要』は1901年(明治34年)5月に根岸由太郎も訳出している。

立教女学校(現・立教女学院)で教え、1902年(明治35年)から校長を務めた[3][6][4]。また、1902年(明治35年)に聖路加病院看護教育が開始された当初、看護学生たちは、立教女学校校長で、聖公会の司祭であった小林からキリスト教を学んだ[3]

1907年(明治40年)には、立教学院校友会(現・立教大学校友会)の初代会長を務めた[7]。 大正から昭和初期にかけて、立教大学教授として宗教学宗教史を講じている[5][8]

1921年(大正10年)には、同級生の石井亮一が創設した滝乃川学園の第2代理事長も務めた[9]

1940年(昭和15年)に日本聖公会北関東教区により、永田寿美宅が「小金井講義所」として認定されると、管理司祭として教区より立教高等女学校校長の小林彦五郎が派遣された。同司祭により同年3月11日に東京府知事に設立申請が提出されたが、この日が小金井聖公会の創立記念日になっている[1]

主な著作[編集]

  • 『教會史要』ジョン・デヴィス編著 小林彦五郎,山縣雄杜三合訳 日本聖公会出版会社 1898年12月
  • 『基督教徒の品性』ヂエー・アール・イーリングオース著 小林彦五郎訳 普光社 1909年8月
  • 『婦人修養と実際』小林彦五郎, 村田天籟著 一星社 1911年5月
  • 『基督教徒の品性』ヂエー・アール・イーリングオース著 小林彦五郎訳 日本聖公会出版社 1913年
  • 『永生不死』小林彦五郎著 小林彦五郎著作刊行会 1959年11月

脚注[編集]

  1. ^ a b 日本聖公会 『小金井聖公会の歩み』
  2. ^ 『立教大学新聞 第89号』 1930年(昭和5年)6月18日
  3. ^ a b c 藤本 大士「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動 : ミッション病院の事業とその協力者たち」、東京大学、2019年3月。 
  4. ^ a b c 鈴木範久「立教大学校とカレッジ教育」『立教学院史研究』第5号、立教大学、2007年、2-16頁、doi:10.14992/00015286ISSN 1884-1848NAID 110008682386 
  5. ^ a b 海老沢 有道,大久保 利謙,森田 優三(他)「立教大学史学会小史(I) : 立教史学の創生 : 建学から昭和11年まで (100号記念特集)」『史苑』第28巻第1号、立教大学史学会、1967年7月、1-54頁、ISSN 03869318 
  6. ^ 『東京の私学で教えた同志社人』 手塚竜麿
  7. ^ 立教大学校友会 『歴代校友会長』
  8. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 『立教大学一覧 昭和8年3月』 1933年
  9. ^ 滝乃川学園 講演会『石井亮一・筆子と滝乃川学園』 米川 覚 2020年12月9日
先代
-
立教大学校友会会長
1907年 - (初代)
次代
杉浦貞二郎
先代
中尾太一郎
滝乃川学園理事長
1921年 - 1921年
次代
渋沢栄一