入間川重恒

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入間川 重恒(いるまがわ しげつね、元禄12年(1699年) - 享保12年(1727年[1])は、江戸時代中期の仙台藩天文家天文方渋川家の養子となり渋川 敬也(しぶかわ ひろなり)を名乗った。名は春水、通称は市十郎、号は黄白である[1]

概要[編集]

元来、仙台藩伊達吉村の家来であり、1716年(享保元年)藩命によって遠藤盛俊のもとで3年間天文学を学んだ[1]。その頃、幕府の天文方を務めていた渋川家では、跡継ぎの問題で悩んでいた[1]。盛俊が初代天文方・渋川春海の門人だったこともあり、渋川家の養子に入って、名を渋川敬也と改める[1]1726年(享保11年)天文方に就任するが、翌年急逝した[1]。突然の死に世間では毒殺説がささやかれた[2]

同門の佐竹義根によると、『元資要弁』(享保4年)『日刻或問』(享保6年)『正教論』(享保5年夏以前か)『天文五行論』『大和書訓』『渋川先生実記』の著書があり、「三天秘訣」「本朝軍秘録」「神道秘説」を書いたようである[1]。また、『理気弁』(享保5年)や小泉持春・常磐定倉『正化弁証』(享保4年)に寄せた跋文も残っている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 尹朝鉄「風土と手習い : 入間川重恒の『大和書訓』を素材に」『「書物・出版と社会変容」研究会』第20巻、書物・出版と社会変容、2016年、249-268頁。 
  2. ^ 林 2006, pp. 51–52.

参考文献[編集]

  • 林, 淳『天文方と陰陽道』山川出版社〈日本史リブレット〉、2006年8月25日。ISBN 4-634-54460-1