修立社

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修立社は、1877年明治10年)11月に設立された日本結社

概要[編集]

その趣意書によれば「天賦の自由を拡充し、人為の権力を抑制し、上は政治を改良し、下は自治の気象を発達せしめ、以て最善至美の社会を構造せん」とするにあった。社員を2部に分かち、15歳以上を正社員、以下を準社員とした。学課規則を設け、社員のほかに広く地方の子弟にも入学を許し、課程を6学級にわかち、毎日4時間の授業を行うなど、大いに勉学を奨励した。

社長は森脇直樹。社員100名。社員に初代高知市長・一圓正興。のちの代議士中野寅次郎らがいる。 社員森田馬太郎は、1882年(明治15年)1月5日立志社構内政談演説会の演説が忌諱にふれ、日本最初の不敬罪で重禁錮4年・罰金100円という過酷な刑に処せられた。また、社員佐野義一下村治幾間直三大井善友は、獄洋社吉松寿太郎らと大臣暗殺を企て上阪したが、1886年(明治19年)1月、尻無川で金銭のもつれから高知県人を縊殺、捕縛された。いわゆる「尻無川事件」である。これにより、吉松・佐野は1888年(明治21年)7月死刑、下村・間は無期徒刑、大井らは重禁錮3年に処せられた。