修則

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修 則(しゅう そく、? - 268年)は、中国三国時代武将。「脩則」とも呼ばれる。

生涯[編集]

修則は交州広州を渡り歩き、呉の将軍に仕えて官職は交州刺史まで至ったという。

宝鼎3年(268年)、修則は前部督に任命され、交州刺史劉俊荊州刺史顧容らと共に交阯で暴れている反乱軍を討伐しに行き、交阯郡の都城で西晋の交阯太守楊稷と連続して3度にわたって戦ったが打ち負かされ、鬱林九真の両郡も呉から離反して西晋に属する事となった。その後、楊稷は牙門将の毛炅董元に顧容軍の駐屯している合浦郡を攻めさせ、両軍は合浦にある古城で交戦し、呉軍は大敗して修則は劉俊と共に戦死した。

子孫[編集]

  • 修允 - 修則の子。呉の合浦太守・桂林太守を歴任。
  • 修湛 - 修則の子。梁碩の元で交州刺史を代行。東晋政府から派遣された王諒に斬られた。

参考文献[編集]

脚注[編集]