井上政次

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井上政次
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 慶安3年8月22日1650年9月17日
戒名 心性院宗桂日悟[1]
下総高岡藩世嗣
氏族 井上氏
父母 井上政重
井上正友
政清政実政則政勝政明、井上某室
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井上 政次(いのうえ まさつぐ)は、江戸時代前期の下総国高岡藩[注釈 1]の世嗣。初代藩主井上政重の嫡男であったが、父に先立った。

略歴[編集]

慶長7年(1602年)、井上政重の嫡男として誕生[1]。元和4年(1618年)に徳川家光に拝謁し、使番を務める[1]

島原の乱に際しては、上使となった父とともに寛永15年(1638年)1月3日に島原に派遣された[1]。寛永18年(1641年)12月13日に番をゆるされる[1]。寛永19年(1642年)8月27日、鎌倉で暮らしていた英勝院(徳川家康の側室)[注釈 2]が死去したことに伴い、鎌倉に赴いて賻銀(将軍家からの弔慰金)を届けた[1]

慶安3年(1650年)8月22日、父に先立って死去した[1]。享年49[1]。井上家の家督は、政次の長男・井上政清が継ぐこととなる[1]

系譜[編集]

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[2]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

  • 父:井上政重(1585-1661)
  • 母:不詳[1]
  • 正室:井上正友[1][3][注釈 3]
    • 長男(1):井上政清[1](1628-1675) - 井上家の家督を継承。
    • 次男(2):井上政実[4] - 半十郎。徳川家綱付きとなるが、16歳で死去[4]
    • 三男(3):井上政則[4](政春[5]) - 源蔵。家綱の小姓となる。1000石の旗本家の祖となる[5]
    • 四男(4):井上源八郎[4]
    • 女子(5) - 井上兵部(水戸家家臣)の妻[4]
    • 五男(6):井上政勝[4] - 源助。家綱に御目見するが、21歳で死去[4]
    • 六男(7):井上政明[4] - 伊織。御書院番組頭を務める。500石の旗本家の祖となる[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 井上家は当時定府の大名で、所領は上総・下総両国に分散しており、下総高岡を居所と定めるのは3代藩主井上政蔽(政次の孫)の時代である。
  2. ^ 英勝院は太田康資の娘で、太田重正の妹とされる。政次の父・政重の正室は太田重正の娘であり(ただし政次の生母ではない)[1]、井上家と英勝院は親族にあたる。
  3. ^ 正友は政重の兄であるため[3]、政次の従姉妹にあたる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.253
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.253-254
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.241
  4. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.254
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.257
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.259