ロマン・イゴレヴィチ (ガーリチ公)

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ロマン・イゴレヴィチ
Роман Игоревич
ガーリチ公
ズヴェニゴロド公
ガーリチから追放されるロマン・イゴレヴィチ
在位 ズヴェニゴロド公1206年 - 1207年1210年 - 1211年
ガーリチ公1208年 - 1210年、1211年

死去 1211年
家名 リューリク家
父親 ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリ
母親 エフロシニヤ・ヤロスラヴナ
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ロマン・イゴレヴィチロシア語: Роман Игоревич、? - 1211年)は、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリの子(母はエフロシニヤ)の子である。ズヴェニゴロド公:1206年 - 1211年、ガーリチ公:1208年 - 1210年、1211年。

生涯[編集]

1205年、ザビホストの戦い(ru)[注 1]においてガーリチ・ヴォルィーニ公ロマンが戦死すると、その幼い後継者であったダニールは、ハンガリー王アンドラーシュ2世の支援の下しばらくは公位を維持したが、1206年にガーリチから追放された。ロマンは2人の兄弟と共に、ガーリチ・ヴォルィーニ公国の獲得に成功し、兄弟と共に公位を分割して即位した。すなわち、ウラジーミルのガーリチ公、スヴャトスラフ(ru)ヴォルィーニ公、ロマンのズヴェニゴロド公である。

しかし1208年にはロマンはハンガリー王国と結んでガーリチを攻め落とし、兄ウラジーミルをプチヴリへと追放した。ただし1210年にウラジーミルは帰還し、以降は共同統治を行った。ロマンら兄弟は、自身の権力を承認させるために、自分たちに不満を持つガーリチの貴族たち(ボヤーレ)に迫害を加えたが、最終的には公国内での支持を失った。1211年、ポーランド・ハンガリー連合軍によってウラジーミルは子と共に追放された。ロマンはズヴェニゴロドにおいて、スヴャトスラフはペレムィシュリにおいてそれぞれ捕縛された。ガーリチ公位にはダニール(上記のダニール)が就き、ロマン、スヴャトスラフ(そしておそらく兄弟のロスチスラフも)は絞首刑に処された。

注釈[編集]

  1. ^ ザビホスト(Zawichost)は現ポーランドシフィェンティクシシュ県の市。詳しくはen:Zawichostを参照されたし。

参考文献[編集]