ヘニッジ・フィンチ (第5代ウィンチルシー伯爵)

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第5代ウィンチルシー伯爵ヘニッジ・フィンチ英語: Heneage Finch, 5th Earl of Winchilsea FSA 1657年1月3日1726年9月30日)は、イギリスの貴族、政治家。

生涯[編集]

1657年1月3日、第3代ウィンチルシー伯爵ヘニッジ・フィンチ英語版とメアリー・シーモア(Mary Seymour)の次男として生まれた[1]

1676年から1677年にかけてフランスとイタリアを旅した後、1682年に大尉としてコールドストリームガーズに入隊、1687年に中佐に昇進した[1]。また、1683年よりヨーク公爵ジェームズ寝室宮内官英語版になり、ヨーク公爵が1685年にジェームズ2世および7世として国王に即位した後も留任した[1]

1685年イングランド総選挙英語版でジェームズ2世の指名候補としてハイス選挙区英語版で当選、1688年の名誉革命では父がウィリアム3世側で関与したが自身はジェームズ2世を支持、1690年にはフランスへの逃亡を試みて捕らえられた[1]。以降は甥の第4代ウィンチルシー伯爵チャールズ・フィンチとともにイーストウェル英語版に住み、そこで骨董趣味に没頭したが、1701年、1705年、1710年の3度にわたって選挙で立候補、いずれも敗北に終わっている[1]

1712年8月14日に甥チャールズが死去すると、ウィンチルシー伯爵とその従属爵位を継承した[2]。しかし、彼はアン女王への忠誠の誓いを拒否して貴族院に登院しなかった[1]

1724年、ロンドン考古協会副会長に就任した[1]。1726年9月30日に死去、子供をもうけなかったため異母弟ジョンが爵位を継承した[2]

家族[編集]

1684年5月14日、アン・キングスミル(Anne Kingsmill、1720年8月5日没、ウィリアム・キングスミルの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g Henning, Basil Duke (1983). "FINCH, Heneage II (1657-1726), of Eastwell, Kent". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年5月31日閲覧
  2. ^ a b c Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 2156.
イングランド議会 (en
先代
サー・エドワード・デリング準男爵英語版
エドワード・ヘイルズ
庶民院議員(ハイス選挙区英語版選出)
1685年 – 1687年
同職:ジュリアス・ディーズ 1685年
ウィリアム・ショー 1685年 – 1687年
次代
エドワード・ヘイルズ
ジュリアス・ディーズ
イングランドの爵位
先代
チャールズ・フィンチ
ウィンチルシー伯爵
1712年 – 1726年
次代
ジョン・フィンチ
メイドストーン子爵
1712年 – 1726年
フィッツハーバート男爵
1712年 – 1726年
イングランドの準男爵
先代
チャールズ・フィンチ
(イーストウェルの)準男爵英語版
1712年 – 1726年
次代
ジョン・フィンチ