ハーベルシュヴェルトの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハーベルシュヴェルトの戦い
戦争オーストリア継承戦争
年月日1745年2月14日
場所シュレージエンハーベルシュヴェルト英語版
結果:プロイセンの勝利
交戦勢力
ハプスブルク帝国 ハプスブルク帝国 プロイセン王国 プロイセン王国
指導者・指揮官
ハプスブルク帝国 フランツ・ヴェンツェル・フォン・ヴァリス(Franz Wenzel von Wallis プロイセン王国 ハンス・フォン・レーヴァルト英語版
プロイセン王国 ハインリヒ・アウグスト・ド・ラ・モッテ・フーケ英語版
戦力
約8,000 約12,000
損害
戦死52
負傷229
行方不明154
捕虜90
戦死21(士官7人含む)
負傷144

ハーベルシュヴェルトの戦い(ハーベルシュヴェルトのたたかい、ドイツ語: Gefecht bei Habelschwerdt)は、オーストリア継承戦争中の1745年2月14日ハンス・フォン・レーヴァルト英語版ハインリヒ・アウグスト・ド・ラ・モッテ・フーケ英語版率いるプロイセン軍がフランツ・ヴェンツェル・フォン・ヴァリス率いるオーストリア軍に勝利した戦闘。

経過[編集]

1745年2月13日、ヴァリス将軍はプロイセン軍が進軍しているという報せを受け取った。彼は8個歩兵大隊と騎兵約1,000人にハーベルシュヴェルト英語版プロムニッツ英語版の間の丘を占領させた[1]

両軍の騎兵はアルト=ヴァルテルスドルフ英語版で遭遇した。オーストリア軍の偵察の質が悪く、ヴァリスはプロイセン軍を6千から7千と概算した。オーストリア軍はその夜を丘の上で過ごした。

レーヴァルト将軍は第3と第11連隊の擲弾兵、最も多くの損害を出した第2歩兵連隊、第17、20、30歩兵連隊(の2個大隊)を指揮した[2]。吹雪の中、プロイセンの14個大隊と2個フザール連隊が突撃した。2時間の戦闘の後、プロイセン軍が優勢だったためヴァリスは撤退を命じ、ボヘミアまで後退した。

プロイセン軍にはアンドレアス・エールハルト・フォン・ガウディ(Andreas Ehrhardt von Gaudiフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ガウディ英語版の父)が参戦していた。

脚注[編集]

  1. ^ Weczerka, Hugo (1977) (ドイツ語). Handbuch der historischen Stätten. Schlesien.. Kröner, Stuttgart. p. 173. ISBN 3-520-31601-3 (Kröners Taschenausgabe 316)
  2. ^ Lange, Eduard (ドイツ語). Die Soldaten Friedrich's des Grossen. p. 537. https://books.google.de/books?id=pqNDAAAAYAAJ&pg=PA537&hl=de 

参考文献[編集]