ノート:進斎年光

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月岡芳年翁之碑の記載について[編集]

1898年(明治31年)5月に建立された月岡芳年翁之碑によると、芳年社中故門人として年光の名があるそうですが、1904年(明治37年)に出版された年光名義の「マカロフ中将奮死ノ図」は日露戦争の事実を基にして描かれた浮世絵であるため、少なくとも1904年までは存命であるようです。碑文の年光とは別人ではないでしょうか? 詳しくは私には判りませんが芳年の門下には「としみつ」と呼ばれる人物は、碑文の物故者とされている「年光」と「小林年参」、更に奮死の図を描いた進斎年光の3人がいたのではないかと思います。この詳細を論じている方がおられるかは存じませんが、一般的にはどのような解釈になっているのでしょうか? ご存知の方はお知らせくださると幸いです。--Y.haruo会話) 2018年9月17日 (月) 09:12 (UTC) ※誤字に付き修正しました。--Y.haruo会話2018年9月18日 (火) 12:47 (UTC)[返信]

『墨田区文化財調査報告書Ⅵ -仮名まじり文の石碑(2)-』(墨田区教育委員会、昭和61年)の月岡芳年翁之碑の翻刻(76頁)には「国芳社中故門人」の中に「年光」の名があり、この石碑に故人として記されているのは間違いありません。しかしご指摘の通り、その「年光」が日露戦争の絵を描くことはありえず、また『浮世絵師伝』と『原色浮世絵大百科事典』第二巻(76頁)も月岡芳年翁之碑の「年光」と進斎年光を同一人とする記述はないので、進斎年光が月岡芳年翁之碑の「年光」と同一人だとする箇所は削られるべきでしょう。はっきりと「別人である」とする文献を自分は見ていませんが、それが穏当だろうと思います。
なお「小林年参」については、月岡芳年翁之碑に「年光」とともに「国芳社中故門人」として名があり、また進斎年光の姓が「古林」とされていることを見ても、これも別人としたほうがよいのではないでしょうか。--ものぐさたろう会話2018年9月21日 (金) 00:45 (UTC)[返信]
お調べいただきまして有難うございます。浮世絵を基に調べたところ、進斎年光は小林栄成と福島年光の混同により発生した誤伝で有ると思われます。大変長くなりますので利用者:Y.haruo/芳年門人の進斎、年光、年参、栄成についてにまとめてみました。福島年光は物故者ではなく、碑文の最後に記載のある「年光」であると思います。これを論じている著作が有れば碑文の件も書けるのですが。--Y.haruo会話2018年9月23日 (日) 00:11 (UTC)[返信]
お言葉恐縮いたします。不確かなことを書き込んでしまったようで申し訳ありません。絵にある落款署名を追っての調査、本当に感心いたしました。利用者:Y.haruo/芳年門人の進斎、年光、年参、栄成についての内容はこのノートなどに転記すべきと思います。--ものぐさたろう会話) 2018年9月23日 (日) 01:21 (UTC) 記述の一部訂正。--ものぐさたろう会話2018年9月23日 (日) 01:28 (UTC)[返信]
下記に移してみました。Quotationを使おうとしましたが大きすぎるためか使えず、そのまま移してみました。問題が有れば修正してください。--Y.haruo会話2018年9月24日 (月) 05:46 (UTC)[返信]
転記ありがとうございます。参考までにですが諸記載の節に『増補古今書画名家一覧』を加えました。
また11「上野公園博覧会場 美術館 猩々噴水器之圖」の落款「季光」ですが、これは「季光」ではなく「秊光」(年光)ではないでしょうか。諸橋轍次編『大漢和辞典』に「秊」(「禾」の字の下に「千」)は「年」の本字とあります(第八巻)。これについても少し加筆しました。修正等はご随意に。--ものぐさたろう会話2018年9月25日 (火) 00:15 (UTC)[返信]
諸記載の節に『浮世絵備考』を追加しました。--ものぐさたろう会話2018年9月25日 (火) 03:20 (UTC)[返信]
19「第二軍清国金州占領」ですが、これは辰斎年秀の作ではないでしょうか。落款の最初の二文字が「辰斎」、その下の字が読みにくいが「年」(または「秊」)で間違いないのなら、「年」の下は「秀」の字に見えます。--ものぐさたろう会話) 2018年9月26日 (水) 00:05 (UTC) 記述訂正。--ものぐさたろう会話2018年9月26日 (水) 00:15 (UTC)[返信]
修正並びに加筆頂き有難うございます。それらの御指摘と浮世年光について修正してみました。浮世年光は大阪画壇の人物であり芳年の門人ではないようです。--Y.haruo会話) 2018年9月26日 (水) 09:07 (UTC)一部加筆修正--Y.haruo会話) 2018年9月26日 (水) 09:47 (UTC)一部修正--Y.haruo会話2018年9月26日 (水) 10:12 (UTC)[返信]
当時の大阪にもう一人「年光」がいたのですね。自分も年光についてなお調べてみます。--ものぐさたろう会話2018年9月27日 (木) 00:15 (UTC)[返信]
「元治夢物語」について一応追加しました。この錦絵は京都市の霊山歴史館で所有していたので電話にて伺いました。お忙しい中現物を調べていただいたところ、そこには進斎年参(進斎年光ではない)の記名が有り、栄成が同号を名乗っていたことが判る貴重な証言を得ることができました。しかしながら現在はこの錦絵を公開しておらず、また、同館ではこの錦絵の画像を含んだ刊行物は出版していないとのことでした。画像が確認できないので下記には参考を付与しましたが、「百花叡覧」と共に画像を確認したい錦絵です。--Y.haruo会話2018年9月28日 (金) 17:05 (UTC)[返信]
霊山歴史館への電話お疲れ様でした。こうした資料によって年参の素性がより明らかになりますね。ところで東京大学史料編纂所の所蔵で「元治夢物語」の画像がありました。⇒「元治夢物語」 霊山歴史館所蔵の「元治夢物語」とはこれと同じものでしょうか。--ものぐさたろう会話2018年9月29日 (土) 01:19 (UTC)[返信]
諸記載の節に『総校日本浮世絵類考』の「古林年光」と「亭斎年春」の項を追加しました。--ものぐさたろう会話2018年9月30日 (日) 01:03 (UTC)[返信]
「元治夢物語」の画像を御紹介頂き誠に有難うございます。まさにこれであると思います。電話での聞き取りでは画工名を「小林栄成」とお聞きしていたのですが、古林が正しいようですね。もしかしたら版によって記載が異なるのかもしれませんが、画像の記載通りに変更して参考を除去し、細部の修正及び挿絵を2作追加しました。また、「三浦本」の記載は他の記載とは違い、古林年光の詳細について述べており貴重なものですね。果して栄成は年春とも名乗ったのでしょうか--Y.haruo会話2018年9月30日 (日) 17:25 (UTC)[返信]
「元治夢物語」、お役に立てて何よりです。「三浦本」は『総校日本浮世絵類考』の記述をそのまま転載しましたが、「大月氏、芳年の門人にて」云々のすぐ後に「大月年光とは別人なり」などとあって、どうもよくわからないところがあります。明治32年以降も活動していたとなると、月岡芳年翁之碑にある「故門人」の「年光」ではないのは間違いないのですが…。「亭斎 年春」も本文に「年春」とありますが、これまでY.haruoさんがお調べになった作品の落款署名を見ると「年春」は見当たらないので、「年参」の誤記誤伝という可能性もあるかと思います。なお調べてみます。--ものぐさたろう会話2018年10月1日 (月) 00:25 (UTC)[返信]
辰斎年秀名義の浮世絵を1作挙げてみました。19とは記名の仕方が全然違うのですが、印章は似ているようにも見えます。19が記名で19Bは綺麗すぎるので、あるいは印字かもしれません。19は辰斎年秀の作でしょうか。--Y.haruo会話2018年10月3日 (水) 12:17 (UTC)[返信]
「牛荘附近激戦之図」、函館市中央図書館にも所蔵していて画像がありましたので追加しました。ボストン美術館のものよりも画像は詳細です。印章は見づらくはありますが、自分も19と19B、何れも同じものに見えます(或いは「辰斎年秀印」と読むか)。「辰斎」についてはこの時期(明治20年代)にその号を使う絵師がほかにいなければ、19も辰斎年秀の作であり、「Kobayashi Toshimitsu」とするのは誤りかと思います。--ものぐさたろう会話2018年10月6日 (土) 00:38 (UTC)[返信]
画像を追加いただきありがとうございます。それらを踏まえた上で19について修正しました。函館市中央図書館ではなぜか「辰斎 年英」と記されており、只の誤記かもしれませんが右田年英と混同しているように思われます。芳年門下は数が多く作品も多くは海外へ流出していて確認が出来ず、また、研究者も少ないことから誤りが多いようですね。--Y.haruo会話2018年10月6日 (土) 17:18 (UTC)[返信]
お役に立ててよかったです。「辰斎 年英」は、どう見ても「牛荘附近激戦之図」の署名は「年英」とは読めず、単純な誤記ではないかとも思えますが、混同している可能性もありますね。いずれにしても年秀の本名が「平岡光太郎」で間違いなければ、右田を称する年英とは別人とみてよいと思います。--ものぐさたろう会話2018年10月7日 (日) 01:05 (UTC)[返信]

(インデント戻します)さてこれまでにわかった事を、小林年参進斎年光に反映してもよいのではないかと思います。まずは進斎年光という記事名が問題にならないでしょうか。月岡芳年翁之碑に記される二人の「年光」と大月年光、また大阪の浮世年光それぞれの関係は分明ではありませんが、これら「年光」が作品に「進斎」の号を使っていないことはY.haruoさんの調査により明らかになったので、進斎年光という記事名は適当ではないと思います。--ものぐさたろう会話2018年10月8日 (月) 00:55 (UTC)[返信]

進斎年光という名は各博物館やCiNiiでも使用されており広く流布しております。従ってこの誤伝の流布を生かすべく、このページをあえて残して人名の曖昧さ回避ページとし、例えば「進斎年光は明治期に活動した月岡芳年門下の浮世絵師の通称である。複数の人物が称せられたが進斎年光と号した人物は存在しない。以下に進斎年光と呼称された人物を挙げる。」等と導入部に記して歌舞伎役者名のようにして、大月年光や福島年光の項目を新たに作成するのはどうでしょうか。--Y.haruo会話2018年10月8日 (月) 03:26 (UTC)[返信]
なるほどよいご提案です、その方向で進めてよいと思います。ただ大月年光については素性がはっきりしないので(月岡芳年之碑にある「故門人」の年光なのか、それとも福島年光の事なのか)、単独記事として立項できるかどうかは難しいように思います。--ものぐさたろう会話2018年10月8日 (月) 04:12 (UTC)[返信]
そうでした。三浦本は「大月年光とは別人なり」と記されてますから大月年光の出典としては使えないですね。大月年光については改変後の当ページに東京ぐらいしか書けないですが、歌舞伎役者名も全ての記事が立項されているわけではないのでこのページに記載するのは問題ないと思われます。--Y.haruo会話2018年10月8日 (月) 05:22 (UTC)[返信]
それでよいと思います。自分もまだ何かわかることはないか調べてみます。--ものぐさたろう会話2018年10月9日 (火) 00:08 (UTC)[返信]
判りました。Wikipedia:合意形成に従って1週間ほど待って異論がないようなら、改編に着手したいと思います。--Y.haruo会話2018年10月9日 (火) 14:42 (UTC)[返信]
了解しました。--ものぐさたろう会話2018年10月10日 (水) 00:00 (UTC)[返信]
无名翁随筆(三浦若海増補本)の節に、「三浦本」に記す「越後屋」のことについて追記しました。12、15、16、20の作を越後屋こと松野米次郎が版行しており、また「大月年光とは別人なり、暫く地方に旅行して在りしが」云々の話に間違いがなければ、「三浦本」にある「年光」とは福島年光のことのように思われます。--ものぐさたろう会話) 2018年10月12日 (金) 00:15 (UTC) 誤記訂正。--ものぐさたろう会話) 2018年10月12日 (金) 00:18 (UTC) 微修正。--ものぐさたろう会話2018年10月12日 (金) 00:26 (UTC)[返信]
なるほど、とても良い解釈だと思います。私は大月氏と記載されているので大月年光の事を書いているのかと思っておりましたが、福島年光の事を書いていたのですね。大月年光名義の西南戦争の錦絵は今のところ確認できていませんが、同時期の明治11年に「百花叡覧」を描いていますので、1行目が大月年光、「大月年光とは別人なり」以降が福島年光の記載と考えると辻褄が合います。ひょっとすると[三浦本]の記載は1行目だけで2行目以降は別の出典かもしれませんね。こうなると国立国会図書館のマイクロフィルムで公開されている「千代田日報」の挿絵の記名も気になるところです。--Y.haruo会話2018年10月12日 (金) 13:12 (UTC)[返信]
おほめいただきありがとうございます。「三浦本」の「古林年光」の内容は、やはり二人の年光の記述が入っているようですね。「百花叡覧」のこと等も含めなお調べてみます。--ものぐさたろう会話2018年10月13日 (土) 00:20 (UTC)[返信]
小林栄成に関する挿絵の追加並びに微修正を行いました。栄成は明治10年に出版された「鹿児島余聞 : 絵入」の編集をしており、編集者として詳細が記されていました。栄成は三重県出身の士族だったようです。--Y.haruo会話) 2018年10月13日 (土) 10:46 (UTC)誤記を修正しました。--Y.haruo会話2018年10月13日 (土) 11:50 (UTC)[返信]
東京の人かと思っていましたが、三重の士族だったとは意外でした。画工ではなく「編輯人」ということは、文も栄成が執筆したことになりそうですね。自分も引き続き栄成や年光について調べてみます。--ものぐさたろう会話2018年10月14日 (日) 01:22 (UTC)[返信]
栄成の編集作を2作追加しました。栄成は浮世絵を描くとともに自身の絵を用いた編集や出版も少なからず行っていたようです。また、1881年頃の栄成は「季」または「秊」を含んだ新たな号を模索していたようで、井上和雄の『浮世絵師伝』の年峯の記述はこのことだと思われます。画像が小さく判読が難しいですが、私には年峯よりは季(または秊)崗のように見えます。--Y.haruo会話2018年10月15日 (月) 18:25 (UTC)[返信]
期日経過に付き進斎年光のページを改編してみました。問題などがあれば修正してください。--Y.haruo会話2018年10月16日 (火) 17:24 (UTC)[返信]
進斎年光の内容確認しました。何かあれば加筆させていただきます。
11ア「大日本府縣名所獨案内 附都會便覽名所畫入」が国会図書館に実物があったので[1]、署名について確認しました。癖の強い書体で読みにくいですが、「小林」の下の文字は「季」とは読めず「秊」の字だと思います。11の「季」とされる字に似ています。その次の字は「山」、その次の字は「圖」ではないでしょうか。「山」とその次の字の間がやや離れ、一字には見えませんでした。すると「應需 小林秊山 圖画」と署名しているのではないかと思います。これについて加筆しました。
「秊」の字については芳年の印章の中に、どう見ても「年」ではない「秊」の字を使っているものがあります[2]。これは印章ですが、芳年の門人たちの間でも署名等に「秊」の字を使っていたのではないでしょうか。それについても付加しました。--ものぐさたろう会話2018年10月17日 (水) 01:27 (UTC)[返信]
加筆頂きありがとうございました。ご指摘を踏まえたうえで修整し、9C、10C、11ウの画像を挙げてみました。画像が小さいと判読が難しいですね。「秊」の字については10C 「春風情話. 第1編」の記名が「秊参」に見えますので、栄成も師匠の芳年の印章に倣って用いているのだと思います。また、11アの記名が「秊山」だとすると「年参」の読みは「としさん」かもしれませんね。(又は周りでそう呼ばれていたのかもしれません。)そうすると11の読みも「季光」ではなく「秊參」ではないでしょうか。画像を改めて確認してみたのですが、上部が「ム」が3っつ、下部が1画ではなく3回のはねのように見えます。また、11ウ「懐妊子寶雙六」の記名は『浮世絵師伝』の記載により「應需 峯」と読みましたが、一字で「年」や「秊」などもなく正直自身が有りません。--Y.haruo会話2018年10月18日 (木) 14:11 (UTC)[返信]
9Cの署名は自分も「秊参」で間違いないように見えます。11ですが、やや小さめながらこちらの画像[3]を拡大して見ると、やはり自分には「光」の字のように見えます。神戸市立博物館所蔵だそうなので調べてみます。11ウは「亭斎筆」と署名しているのではないでしょうか。それについて少し加筆しました。
「年参」の読み方については以前から調べていたのですが、どうも読み方を示した文献が見つかりません。小林年参の参考文献の項には初版から五つの文献が示されていますが、これらを調べたところいずれも「年参」の読み方について示したものはありませんでした。初版からある「年参の読みは「としみつ」あるいは「としかず」といわれる」という記述が、何に拠っているのかがわかりません。よって小林年参についてはその読み仮名とデフォルトソート、またこの記述をとりあえず削除しなければならないのではないかと考えてます。--ものぐさたろう会話) 2018年10月19日 (金) 00:36 (UTC) 記述訂正。--ものぐさたろう会話2018年10月19日 (金) 00:45 (UTC)[返信]
11ウは9Cと比較したところ「筆」が若干違うようにも見えますが、やはり「亭斎筆」の記名の様です。判読頂きありがとうございます。『浮世絵師伝』の記載は筒井年峰との混同でしょうか。これにより11ウについては修正致しました。11の神戸市立博物館所蔵の図ですが、届年の記載が無く、また、「井澤菊太郎」の文字も太いことから11とは異版であると思われます。記名も若干異なっているように見えます。年参の読みについてですが、国会図書館では読みを「としかず」としており[4]、その出典として「和荘兵衛」を挙げています。しかし11Aの公開されている部分には前後編とも見つかりませんでした。公開されていない部分に読みが記されているのでしょうか。--Y.haruo会話2018年10月19日 (金) 14:47 (UTC)[返信]
たしかに神戸市立博物館所蔵のものには年月日がないので、明治以降の後刷りの可能性もありますね…判断材料に使わないほうがいいかもしれません。11Aですが、少なくとも国立国会図書館デジタルライブラリー公開の画像では、前後編とも見返しや挿絵に「年参」とあるだけで振り仮名などはないので、これは「年参」の読み方の出典ではないと思います。10Bからも「とし〇〇」と称したのは間違いないのですが、「としかず」が何にもとづくのかわかりません。引き続き調べてみます。
「年峯」について、「錦絵修身談」に「年峯」の名があるとされているようですが[5]、どうも「峯」というより「参」の字に見えます。参考までに。--ものぐさたろう会話2018年10月20日 (土) 00:24 (UTC)[返信]
気になる文献を見たので諸記載の節に追加しました。『現今書画人名録』の刊行年は明治12年、所在は猿楽町で「進斎」と号しており、名は違いますが「進斎年道」が小林栄成(年参)の事である可能性は高そうに思えます。--ものぐさたろう会話2018年10月20日 (土) 05:00 (UTC)[返信]
「錦絵修身談」のページを拝見致しました。これらの錦絵には栄成も参加しており、その記名には「亭斎」を用いており、「年参」の号は使っていないようです(巻三-八、九、十、巻六-二)。そうすると巻一-五や巻二-十の記名などは「年参」ではなく「年峯」と解する方が良いようにも思われます。
『現今書画人名録』の加筆ありがとうございます。名は違いますが住所により恐らく栄成の事を指すものと思います。しかし「進斎年道」の他の記載を調べたところ他の浮世絵や挿絵にはそのような記載は見当たらず、『現今書画人名録』にしか記されていないようです。栄成は9B「元治夢物語」のように「進斎」の号を頭につけて「年参」の号を後に付すことも有るのですが、「進斎」単独の使用のほうが多く他には無いのかもしれません。そうすると「進斎年道」の記述は前年に出版された「元治夢物語」に基づくものではないでしょうか。「参」の字を「道」と誤記した理由はちょっと判りませんが、あるいは「年参」の読みを「としみつ」と読んでそれが「としみち」に転じたものでしょうか。--Y.haruo会話2018年10月21日 (日) 12:39 (UTC)[返信]
たしかに考えてみれば同じ揃い物の中で画名を変えて記す必要もなく、「錦絵修身談」で「年参」と見たのは自分の勇み足だったようです。ただしこうした字の読み違いから、『浮世絵師伝』で「年峯」の項ができてしまった可能性もありそうです。
『現今書画人名録』の緒言には、「這(こ)の書は東京府下書画諸名家在住の地名番号等を詳細に登記し頗る尋訪に便ならしめんが為め」とあり[6]、これから考えるに「進斎年道」というのも或いは当時、巷間で通用していた呼び方だったのかもしれません。「年道」となっているのは自分も判断がつきません、なお調べてみます。--ものぐさたろう会話2018年10月22日 (月) 00:33 (UTC)[返信]

(インデント戻します)主に三浦本の記述を元として福島年光の項目を作ってみました。問題などあれば修正加筆をお願いいたします。--Y.haruo会話2018年10月22日 (月) 12:49 (UTC)[返信]

福島年光に参考文献の節を加えました。『月岡芳年伝 幕末明治のはざまに』396 - 397頁には月岡芳年翁之碑の碑文が載っています。--ものぐさたろう会話2018年10月23日 (火) 00:06 (UTC)[返信]
福島年光の参考文献の節に加筆頂き有難う御座いました。三浦本の記載は松野米次郎側からの観点なので、なるべく中立な記載にしたつもりですが、わかりにくい文章になってしまいました。己の文章力の無さを痛感致します。個人的には年光が板下絵を他の版元に売ったのは困窮の為であり、米次郎に配慮して彩色には参加しなかったのではと思っております。--Y.haruo会話2018年10月23日 (火) 12:47 (UTC)[返信]
もともと生没年等も定かではなく、芳年に比べれば有名とは言い難い人物なので、特定の文献に情報が限られるのも致し方ないと思います。今後も何かわかれば小林年参も含め、加筆させていただきます。--ものぐさたろう会話2018年10月24日 (水) 00:14 (UTC)[返信]
福島年光は1904年以降に所在不明になり、その時には「未だ青年」だったので明治生まれだと思われます。また碑文の記載位置により、芳年が没する直前に入門したのではないかと推測され、芳年が亡くなったので諸国に旅行したものと思われます。これらは推測ですが、今回の調査により小林栄成や大月年光も含めて色々なことが判りました。これらはものぐさたろうさんの協力が無かったら判らなかったことであり、改めて厚く御礼を申し上げます。今回の記事の改編により専門家の調査が進み、少しでも「進斎年光」なる誤伝の記載が減るのであれば嬉しい限りです。--Y.haruo会話2018年10月25日 (木) 19:01 (UTC)[返信]
こちらこそY.haruoさんのおかげで知見を広げることができました。ありがとうございます。--ものぐさたろう会話2018年10月26日 (金) 00:16 (UTC)[返信]
議論は終わりましたが7B2「鹿児嶋賊徒征討」を参考として追加しました。画像は不明ですが、栄成は進斎年参の号を1877年にも使用していたようです。--Y.haruo会話2018年11月27日 (火) 19:18 (UTC)[返信]

芳年門人の進斎、年光、年参、栄成について[編集]

諸記載[編集]

年光と栄成は元々は別人として記載されていたが、井上が同一人物と記載し樋口もそれを受けてか同様の記載をしている。

高崎脩助編『現今書画人名録』(明治12年(1879)刊)[編集]

「浮世画之部」に「猿楽町 進斎年道」とあり[7]

飯島半十郎著『浮世絵師便覧』(明治26年(1893)刊)[編集]

年参 亭斎と号、芳年門人、明治

年光(ミツ)明治、大月氏

栄成 小林氏、明治

梅本鐘太郎編『浮世絵備考』(明治31年(1898)刊)[編集]

「大蘇芳年の門弟」に「亭斎年参」と「大月年光」の名あり[8][9]

石塚猪男蔵編『増補古今書画名家一覧』(明治45年(1912)改正版)[編集]

「今故浮世絵各派名家」に「東京 大月年光」とあり[10]

桑原羊次郎著『浮世絵師人名辞書』(大正12年(1923)刊)[編集]

年光 芳年門人、大月氏、明治

年参 芳年門人、小林氏、亭斎と号す、明治

栄成 小林氏、明治

井上和雄著『浮世絵師伝』(昭和6年(1931)刊)[編集]

年光 【画系】芳年門人【作画期】明治

古林氏、名は栄成、進斎と号し、肩書に「日不見岡」としたり。西南戦争の錦絵を画き明治十四年頃には風俗画あり。神田猿樂町二丁目三番地に住す

年峯 【画系】芳年門人【作画期】明治

古林氏、名は栄成、年光と同一人にして、年峰時代には京橋区銀座二丁目十番地に住す

樋口弘著「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』(昭和37年(1962)の改訂増補版)[編集]

年光(としみつ)古林栄成、進斎と号し、肩書には日不見岡としていた。芳年の門人、明治十年代に作画がある

无名翁随筆(三浦若海増補本)[編集]

古林 年光

[三浦本]大月氏、芳年の門人にて明治十、十一年頃西南戦争の錦絵を画きし二三種あり。
大月年光とは別人なり、暫く地方に旅行して在りしが、明治二十六七年頃帰京せしも、頻りに貧困なりしを、人形町通りの絵双紙問屋越後屋の主人これを憐みて、折から日清戦争の際なりしを幸いと年光に戦争の錦絵を画かせて相当の画料を与へ以て引立んとせしに其恩義を忘れて自ら他店に至りて錦絵の板下絵を売り潤筆料を受けし侭彩色に至れば其侭に打捨置きて不都合の所為多く少しく高慢心の増長せしに、何れも再度と注文する者もあらず。故に又々困難となり。何所へ行きしか所在不明なりし。未だ青年の人にて斯る行為あるは歎ずべし。

三十二年四月下旬より発兌なしたる「千代田日報」の挿絵は此人なりし[1]
亭斎 年春
[三浦本]小林氏、名は栄成といふ。大蘇芳年に学びて明治十、十一年の頃錦絵多く画きたり。又雑本に挿絵もありし、其頃は名を年春とは記さず。栄成を以て出したり。十九年か廿年頃よりか年春と画名を記せり。芳年の画風を変て一流を立んとせし頃に学びし人故ゴチゴチとせし画風なりし。神田猿楽町二丁目三番地に住せしが後に京橋銀座三丁目十番地に移れり[2]

※以上、何れも『総校日本浮世絵類考』(由良哲次編 画文堂、1979年)より本文をそのまま転載。「三浦本」とは渓斎英泉編『無名翁随筆』を三浦若海が増補したもの。天理大学附属天理図書館所蔵。

(付記)「越後屋」について 「三浦本」にある「人形町通りの絵双紙問屋越後屋」とは、当時、日本橋長谷川町(現在の東京都中央区日本橋堀留町二丁目の一部)にいた版元の松野米次郎のことであると考えられる。『原色浮世絵大百科事典』第三巻(日本浮世絵協会編、1982年)の「松野米次郎」の項には次のようにある。

越後屋 略称越米 東京 日本橋区長谷川町二十番地(明治二十七)、のち同長谷川町十八番地(明治三十三)(以下略)[3]

「人形町通り」はこの長谷川町に面していた。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002年)には「長谷川町」について、

新乗物町の東にあり、北は田所町、南は新和泉町。新乗物町通の両側町。西は人形町通、東は大門通に面し(以下略)[4]

とある。

浮世絵や挿絵などの作品における記載[編集]

1870年代から1880年代[編集]

筆名=大蘇芳年、補助 亭斎?(または孝斎か)年参
筆名=大蘇芳年、補筆?亭斎年参
筆名=年参 印(10と類似) 画工者=京橋区銀座四丁目十番地? 小林栄成 出版人=片田長治郎
※京橋区銀座四丁目十番地?に住む小林栄成年参の号を用いている
筆名=進斎 顕画=猿楽町二丁目二番地 古林栄成 出版人=山中北郎
※猿楽町二丁目二番地に住む古林栄成進斎の号を用いている
筆名=進斎 印(9Aと類似)
※浮世絵に記載は無いが、早稲田大学図書館では古林栄成を著者としている[5]
筆名=進斎 画=猿楽町二丁目二番地 小林栄成 板=林吉蔵
※猿楽町二丁目二番地に住む小林栄成進斎の号を用いている
筆名=日不見岡進斎 画工=猿楽丁二丁目二番地 古林栄成 出版人=山中北郎
※猿楽町二丁目二番地に住む古林栄成日不見岡進斎の号を用いている
筆名=進斎 編輯人=猿樂町二丁目三番地 三重縣士族 古林榮成 出板人=伊東祐太郎
※猿楽町二丁目三番地に住む古林栄成は三重県出身の士族である
  • 7B「西南征討全記」(1877年4月頃)刊
筆名=進斎 画工=猿楽町二丁目三番地 古林栄成 出版人=山中北郎[6]
※猿楽町二丁目三番地に住む古林栄成進斎の号を用いている
  • 7B2(参考)「鹿児嶋賊徒征討」(1877年4月28日)刊
筆名=進斎年参 画工=猿楽町三丁目三番地 古林栄成 出板人=片桐金太郎[7]
  • 7C「薩日畧軍記」(1877年9月)刊
筆名=うきよ年光 印(9と類似) 編輯=阪府 出版=鈴木利兵ヱ[8]
筆名=進斎 画工=猿楽町二丁目三番地 古林栄成 出版人=山中北郎
※猿楽町二丁目三番地に住む古林栄成進斎の号を用いている
筆名=浮世年光 印(7Cと類似) 編輯=阪府三津寺町 出版人=吉井卯三郎
  • 9A「鹿児嶋戦争記」(1877年12月)刊
筆名=進斎 印(5と類似) 画工=小林栄成(画像が小さいため住所は判読不能) 出版人=児玉弥七[9]
小林栄成進斎の号を用いている
筆名=進斎年参 画工=猿楽町十八番地 古林栄成 出版人=井澤菊太郎
※猿楽町十八番地に住む古林栄成進斎年参の号を用いている
筆名=亭斎 印 画工=京バシ区ギンザ○○十バンチ? 小林榮成 出板人=木曾直次郎
※京橋区銀座に住む小林栄成亭斎の号を用いている
筆名=年参 印(3と類似) 画工=猿楽町二丁目三番地 古林栄成 発行者=大倉孫兵衛
※猿楽町二丁目三番地に住む古林栄成年参の号を用いている
画=小林とし参 出版者=東京 柳心堂
  • 10C ソル・ヲルタル・スコット著、橘顕三(坪内逍遙)訳述「春風情話. 第1編」(1880年5月)刊
筆名=秊参 出版者=中島精一
※奥付に「進斎」とあり。
筆名=季光[10](ボストン美術館ではToshimitsuとしているが[11]、「年」よりは「季」に近いように思われる。または「秊」〈年〉か。「光」も10Cや11アの記載から「參」かもしれない。) 画工=銀座二丁目十番地 小林栄成 発行者=井澤菊太郎
※銀座二丁目十番地に住む小林栄成季光(もしくは秊光〈年光〉あるいは秊參)の号を用いている
筆名=小林秊山 圖画?(「秊」〈年〉はあるいは「季」か。「山𫝍」も一字の「崗」にも見える。国会図書館では季山としているようだ[12]。または「小林秊山𫝍画」か)
※表紙に「小林榮成編輯」とあり。編集=京橋區銀座二丁目十番地 小林榮成、出版=日本橋區靈岸嶋塩町十九番地 安田安五郎
編輯兼出版人=京橋區銀座二丁目十番地 小林榮成(他) 元賣捌所=山口福松
筆名=亭斎筆か 画工=京バシ區銀座弐丁目拾バンチ? 小林榮成 出板人?=井澤菊太郎
画=亭斎年参 出版者=東京 東京稗史出版社
画=亭斎年参 出版者=東京 文事堂
画=亭齋年参 出版者=東京 春陽堂
上記のまとめ[編集]

年参小林(古林)栄成が用いた号である。栄成は1876年の途中までは京橋区四丁目十番地?に在住し、同年12月以前に猿楽町二丁目二番地に転居、1877年中には同三番地に移り(ただし、これは住所が似ているため誤記の可能性もある)、1879年から1881年の間に銀座二丁目十番地に居を移したものと思われる。また、栄成は進斎日不見岡季光亭斎進斎年参の号も用いていた。

7Cと9は記名や印に類似が見られ、「浮世」の記載に漢字と平仮名の違いが有るものの同一人物の作と思われる。この2作は共に編集が「阪府」とある為、大阪近隣に住む浮世(うきよ)年光と名乗った絵師の作と推定されるが、芳年は東京を本拠としており、また、東海道本線も開通していない当時の交通事情からみても芳年の門人の「年光」ではないと思われる。

(参考)芳年の画印 月岡芳年が使った印章が伝わっており、『浮世絵芸術』第1号(1962年)の「芳年の画印」(宮尾しげを)で印形が紹介されている[13]。それら印章のなかには「芳年」が「芳秊」の字体になっているものが複数ある。栄成もまた、「年」に変えて「秊」を使用していた場合も有ったようである。

1890年代以降[編集]

筆名=年光 秋の印(14と同一) 発行者=松野米次郎
筆名=年光 羽の印(15、17、18と同一) 発行者=福田熊次郎
筆名=年光 秋の印(12と同一) 画工=京橋区水谷丁七 福島年光 発行者=浅賀鉄五郎
※京橋区水谷丁七に住む福島年光年光の号を用いている
筆名=年光 羽の印(13、17、18と同一) 発行者=松野米次郎
筆名=年光 印 発行者=松野米次郎
筆名=年光 羽の印(13、15、18と同一) 発行者=片田直次郎
筆名=年光 羽の印(13、15、17と同一) 発行者=浅賀鉄五郎
筆名=辰?斎年秀?(印章が被っているため判読不能、或いは年光、年参か) 印(19Bと類似しているようにも見える) 発行者=浅賀鉄五郎
筆名=辰齋年秀 印(19と類似しているようにも見える) 発行者=伊藤伊三郎
筆名=年光 星湖の印 発行者=松野米次郎
上記のまとめ[編集]

京橋区水谷丁七に住む福島年光は本名の年光をそのまま号として用いている。また、12から18は記名の「年光」または印章に類似点が認められるため、これらの作品は福島年光の筆によると思われる。

19は記名の判読が難しいが19Bの印章と似ていることから辰斎年秀の作品と思われる。

記名の特徴[編集]

1、2、3、10に見られるように小林(古林)栄成は「年」の字の一画目を殆ど下に抜けず、二画目と繋げて「一」に近い記名をしている。一方、福島年光は12から18に見られるように一画目のはねを大きく記名している。これにより類推するに19は福島年光の書体ではないことから、小林(古林)栄成または、月岡芳年翁之碑に物故者として記載のある「年光」、または辰斎年秀の作品と思われる。20は福島年光の書体とは若干異なるようにも見えるが、この時には小林(古林)栄成と碑文記載の年光は物故者であることから、福島年光の作品であろう。

総論[編集]

11の読みを「秊光〈年光〉」としたか、19が小林栄成の作品であると判断されたのか判らないが、仮に栄成が「秊光〈年光〉」を名乗ったとしても少数の作品しかなく、また、住所地や本名は異なっている。井上の『浮世絵師伝』や樋口の「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』は誤りであろう。そもそも同門に年光という名が最低2人はおり、あえて紛らわしい号を称するとは考えにくい。そして進斎や日不見岡と号したのは小林栄成であり、福島年光にその兆候は見られない。進斎年光は小林栄成と福島年光の混同により発生した誤伝で有ろう。また、福島年光が大月氏だったかどうかは判別不能だった。あるいは碑文記載の物故者の年光の姓かもしれない。5は進斎の名がついていることから進斎年光の作品としてアップロードしてしまったが、上記につき小林栄成の作品とするのが正しいのであろう。また、9は記名が福島年光とは異なっているため、小林栄成または碑文物故者の年光の作品であろう。大阪の画壇の浮世絵師による作品であり、芳年の門人ではないものと思われる。

出典[編集]

  1. ^ 『総校日本浮世絵類考』289頁。この後『浮世絵師伝』の「年光」の本文あるが略した。
  2. ^ 『総校日本浮世絵類考』298頁。
  3. ^ 『原色浮世絵大百科事典』第三巻142頁
  4. ^ 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』227頁
  5. ^ 開明貴族表 / 進斎 【画】”. 早稲田大学図書館. 2018年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月23日閲覧。
  6. ^ 久留米大学(2014年)40、41、70頁
  7. ^ 高野弘之「明治大学博物館 刑事部門所蔵錦絵等絵画資料目録」(PDF)『明治大学博物館研究報告』第10巻、2005年3月、78-79頁。 
  8. ^ 久留米大学(2014年)44、45、70、71頁
  9. ^ 久留米大学(2014年)33、67頁
  10. ^ 上野公園博覧会場 美術館 猩々噴水器之図”. おだぎり通信. 2018年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月23日閲覧。
  11. ^ 「上野公園博覧会場 美術館猩々噴水器之図」”. ボストン美術館. 2018年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月23日閲覧。

--Y.haruo会話) 2018年9月24日 (月) 05:46 (UTC) 居住地を修正しました。--Y.haruo会話2018年9月24日 (月) 08:47 (UTC)[返信]

参考文献[編集]

  • 久留米大学文学部 著、大庭卓也ほか 編『西南戦争-報道と、その広がり : 久留米大学御井図書館貴重資料企画展』(PDF)久留米大学文学部、2014年3月。全国書誌番号:22414404https://web.archive.org/web/20180925144042/http://www.mii.kurume-u.ac.jp/miilib/pdf/zuroku.pdf