ノート:論理学/archive 1

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 論理学を記述してはいけないのですか? 何か言ってください。Nashii

一度削除されているだけで、別に書いてもイイのではないんでしょうか?ルール上問題はないと思いますよ、と何かって見る。来 孫太郎ノート-履歴 13:44 2004年4月25日 (UTC)
私の回答で宜しければお答え致します。一度削除されているから、"記述してはいけない"と言うことはありません。
ただし現在、論理学数理論理学にリダイレクトされていますので、その二つの関係(違い)をはっきりさせる必要があると思います。また、数値論理学の記事内で、論理学について述べられている部分を抜き出す必要があると思います。--Frozen-mikan 13:48 2004年4月25日 (UTC)

 まず、数理論理学のでだし、論理学に触れた部分をコピーしたわけです。
というのは引用しないように書くとなると、さてどう書いていい物か? 
とっかかりになるだろうと、おもったのと、リンク先の残っている記述を集めれば、面白い記事が復活できるだろうと考えたのです。Nashii

単純にウィキペディア内の記事をコピーするのであれば、リダイレクトにしたほうが記事の内容が一カ所に集まって閲覧、編集としても有益です。現在、まとまった考えが無いのであれば、数値論理学の記事内容を項目別に整理した上で、論理学の部分を取り出して記事にする方法が、ゆっくりと行う事が出来る方法だと思います。この場合、項目を抜き出す必要があるかどうかについては、また別の議論ですが。--Frozen-mikan 14:08 2004年4月25日 (UTC)

論理学はその目的が、どうしても主観的に成るとおもいますので、逆に論理学の結論から、
参加者が「論理学」の目的を浮き彫りする。百科辞典の作り方を実践してはいかがでしょうか?
リダイレクトしておいたのでは参加者も少なくなるとおもいます。Nashii

ナシイさん。日本語がおかしいですよ。何度も読み返して真意を推測するのが面倒くさいです。あなたが回答を求めている相手への配慮に欠けています。まず時間をかけて推敲してから投稿してください。
あとブランク(br)の使い過ぎに注意してください。ここはウインドウの右端で自動的に改行される仕様になってます。221.119.186.54

要するにリダイレクトにする必要が無い程度の文になってれば揉めないようでしたので、つたない理解の範囲内で定義らしいものをしてみました。あとはお任せしますんで、ぜひ引用しないようにしておもしろい記事を復活させてくださいまし。Safkan 11:29 2004年4月27日 (UTC)

ナシイさん。2004年4月27日版の編集の意図は何ですか。一つ一つの文を短くすることが推奨されることもありますが、単に文を分割するだけでは分かりやすくするという目標は達成されませんよ。というより、もとの文は決して分かりにくいことはないんですが。重文や複文で書くのにはそれなりの意味があるのですから。むしろ分割によって主語が無くなったり、日本語として不適格な文になったりして、分かりにくくなってます。前の版のタイプミスを修正していないことが、あなたが内容を理解していない証拠です。とりあえず、前の版に戻した方がいいのでは?221.119.186.54 16:31 2004年4月27日 (UTC)

>定言的三段論法における命題の組み合わせには16通りがある(ただしすべての組み合わせから恒真な結論が得られるわけではない)
これは、論理学では答えが出ない、つまり、扱えない命題がある。ということなのでしょうか?

あなたのおっしゃることは意味不明です。

16通りの三段論法と言うのはなにかで読んだことを思い出しました。これは検索できるようなキーワードありませんか?
面白い記述ですね。感心して読ませていただきました。Nashii

あなたのために書いたわけではありません。

テレビかラジオの放送で、ロダンが「錯覚がなければ芸術はない」と言ったとか。
錯覚が芸術の前提条件だとすると、人間も錯覚するわけで、論理学は成り立たない場合もある。
というのは(命題になっている)論理ですか? Nashii

ヒルベルト・プログラムの破綻に関して[編集]

211.122.57.31氏の2004年9月20日 (月) 06:37の版の文中
「尚、生前、ゲーデル自身が「不完全性定理」は「ヒルベルト・プログラム」を葬り去るものではないことを明言していた。」
は、ゲーデルの1931年の論文の以下のコメントをさすと思われる。
「定理XIはヒルベルトの形式主義的見解を否定するものではない、ということを注意したい。
 というのは、この見解は、無矛盾性の証明を有限の立場で行うということだけを必要条件として認識するものであって、Pの形式的体系では表現できない、有限の立場での証明は存在しうるからである。」
(注:定理XIは「形式的体系Pの無矛盾性はPが無矛盾である限りはPでは証明可能ではない」を指す。
 尚、Pはプリンキピア・マテマティカPMの公理にペアノの公理を付加して得られるものである。)
211.122.57.31氏は上のゲーデルのコメントに基づいて
「「不完全性定理」 の意味するものが何であるかについては、今なお、議論されており、状況は流動的である。」
と書いていると思われる。
しかしここで問題となるのは「不完全性定理」ではなく「有限の立場」のはずである。
「有限の立場」は自然数論を含むものと考えられる。
「有限の立場」が何らかの形で形式的体系Fとして表せる場合、不完全性定理によりFの無矛盾性はF自身では証明できない。
もし「有限の立場」が形式的体系として表現できないのであれば、形式的体系によって無矛盾性を証明する「ヒルベルト・プログラム」は破綻したと考えられる。
これに対する211.122.57.31氏の考えを聞きたい。220.107.184.125 2004年9月23日(木)

アリストテレスおよび中世の論理学に関して[編集]

211.122.57.12 氏の以下の
論理学ろんりがく)とは、推論や論証についての学問であり、諸科学の科学(the science of sciences)である。
 アリストテレスはこれを「分析学(アナリティケ)」と呼び、諸学を志す者が先ず最初に修めておくべき学問であると規定したのだったが、
 中世西ヨーロッパでは、「ことば(logos)の学問」であると“誤解”され、以後、「論理学」の名で呼ばれることとなった。」
は、表現だけにこだわり、内容に言及していないので、不適切と考える。--220.107.184.125 2004年9月23日 (木) 22:58 (UTC)

保護のお知らせ[編集]

編集合戦となっているため保護しました。ノートにて合意形成をお願いします。KMT 2004年9月23日 (木) 12:16 (UTC)

現在、「“不完全性定理”の本性が何であるかについては、今なお、議論されており、状況は 流動的である。」となっていますが、一般に受け入れられている見解とは大きく異なる様に思われます。ヒルベルトらが目指していた形式論理は、有限のうちに記述可能な論理であり、その前提のうえで「ヒルベルト・プログラム」が破綻したといって、まったく問題ないと思います。数学に関する詳細な議論は、上記220.107.184.125さんをはじめとした詳しい方にお願いしたいのですが、219.160.183.83さんの編集前の状態に差し戻すことを支持します。Azu 2004年9月23日 (木) 13:01 (UTC)

  • この件に関してはAzu氏の後、220.107.184.125、Setomanko、218.42.227.77、NiKeの各氏が9/9版へのrevertを行い、ノートでの合意形成を求めているにもかかわらず、それを無視して、変更を強行していますので、合意形成の議論を行わせるために、9/9のSuisuiBotさんの版に差し戻すことを希望します。--220.107.184.125 2004年9月23日 (木) 22:44 (UTC)

解除の依頼が出ていたので見てみましたが、リンク先に編集合戦が飛び火しているようでもなく、ノートで激しい論争が続いているわけでもないので、解除してみました。

なお、個人的にはノートでの対話に応じていない方のほうに問題があると思いましたし、ヒルベルトプログラムがゲーデルの不完全性定理によって行き詰ったという理解は広く流布している見解だと思いますが、とりあえず差し戻しはしませんでした。Tomos 2005年1月11日 (火) 23:40 (UTC)

差し戻し対処しました。ご報告まで。Azu 2005年1月12日 (水) 09:40 (UTC)