ノート:范増

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略歴について[編集]

>また劉邦が討って出てきた場合に備え、秦の故地である関中には章邯ら旧秦の将軍たちを配置した。劉邦に縁と恩義がある韓王成は、協力する可能性が高いため項羽に進言して殺させた。

以前に記事にこのように記載されていましたが、「史記」や「漢書」では記載が見当たらず小説等創作作品における記述と考えられますので、削除しています。

また、『憤死した。』という記述がありましたが、史記や漢書では『憤死』と表現は使われてはいないため、削除しています。

脚注において、『その後は項梁に仕えていたと思われるが、『史記』の記述では懐王を立てた後は、鴻門の会まで登場しない。』とされていますが、范増は趙討伐軍の末将に任命されていますので、削除しています。

史記に沿って、内容を大きく加筆していますので、ご意見ありましたらお願いします。--Mamme会話2019年6月19日 (水) 21:57 (UTC)[返信]

死後について[編集]

全体的に、「正しく韓信が語った項羽の「婦人の仁」が士を離れさせたのである。」などといった「史記」や「漢書」の記述からはここまでのことを断言できない、執筆者の主観による記述が目立ちます。ここの部分について参考文献もあげられていません。

出典を明示されない場合は、中立的な観点による「意見を事実として記さない」原則が守られていないことになります。また、ウィキペディアの内容に関する三大方針である「Wikipedia:中立的な観点」及び「Wikipedia:独自研究は載せない」から、好ましくないと考えられますので、内容の一部削除を伴う大きな改変を行い、項目名を「死後と評価」として、范増についても言及の多い佐竹靖彦『項羽』から評価を引用しています。

また、范増については史記や漢書に記された献策は少なく、小説等創作作品における范増とは大きく異なります。このことについて、注意を促す意味を兼ねて小説等創作作品における范増についても記載しています。

ご意見ありましたらお願いします。--Mamme会話2019年6月19日 (水) 21:57 (UTC)[返信]