ノート:直江兼続

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信憑性の薄い説による評価について[編集]

>>一説では景虎に家督を譲るという謙信の遺言を偽造して上杉家を混乱に陥れたり

とありますがその一説と言うのはどれくらいの確度の物なのでしょうか?仮説を元に評価を決めると言うのはどうかと思うのですが。らりた 09:12 2004年6月15日 (UTC)

ついでに言えば、直江家が兼続の代で断絶したこと(兼続の弁護をする人がいなくなったこと)、幕府が磐石になると家康が「神君」として称えられ、逆にそれに抗して上杉家を120万石を30万石に減封に至らせて、家臣たちを貧窮に陥れた兼続は「奸臣」とされて米沢藩の公式の見解にすらなっていた時期すらあったことを考えると兼続を貶める捏造が行われた可能性は十分にありえる訳ですが…。--水野白楓 2005年7月3日 (日) 09:01 (UTC)[返信]

>>一説では景虎に家督を譲るという謙信の遺言を偽造して上杉家を混乱に陥れた


よく小説などで直江兼続が御館の乱で活躍したという話がありますが 実際はそれを裏付ける史料はありません。 上杉氏の正史である「上杉年譜」にも御館の乱の箇所には 上条政繁、斉藤朝信など10人以上の景勝側の武将の名前が確認できますが兼続の 名前は一切出てきません。謙信が死んだ時点で実際兼続がそのような立場にいるとは考えにくいのではないでしょうか。 確実に兼続の活動が確認できるのは天正8年の秋ごろで 景虎が死んだ一年以上も後です。それ以前に唯一残ってるのは御館の乱の最中に 読んだと言われる漢詩のみで、前述の天正8年まではどこで何をしていたのかは 不明なのです。なのでこの頃まだ景勝に近侍してなく坂戸城にいたという 可能性もないわけではないのです。この時兼続が春日山城にいたという記録なんてないのですから。 この様な多くの人が利用するフリー辞典で個人の好き嫌いの感情や偏見で聞いたこともない説や信用できない仮説を持ち出し歴史の人物を評価してしまうのはいかがと思うのですが…。--以上の署名のないコメントは、218.43.53.205会話)さんが 2005年8月7日 (日) 16:53 (UTC) に投稿したものです(Ziman-JAPANによる付記)。[返信]

何というかますますひどくなってますね。まず節の名前が==愚将・兼続の本性==なんていうのはあまりにも無茶苦茶です。内容に関しても御館の乱に関しては水野白楓さん、218.43.53.205さんがおっしゃってるようなことですし、

>直江状においても天下の覇権をめざす家康にとっては体のいい上杉討伐、ひいては関ヶ原への戦いへの良い口実を与えたに過ぎなかった。この程度のことも見抜けずに家康に挑戦状を送ったのなら、彼には軍師として必要であった状況分析力が無いと言える。
>徳川政権期に入ると、家康の最側近であった本多正信の次男・本多政重を自分の娘と娶わせようとするなど、あれだけ豊臣氏に対する忠義とか義理とか言っておきながら、三成が亡くなるとあっけなく主家を鞍替えしている


の二つの文章に関しては関ヶ原前までは勝つ見込みがあった(と思っていた)、関ヶ原以後はもう逆転は無いと考えた、とすればこの二つの行動はごく真っ当な判断だと思うのですが?もし関ヶ原の後も家康に反抗していたらそれこそ上杉取り潰しではないのですか?そっちの方がよほど愚かです。直江状に関しては三成と共謀して・・・と言う推論も成り立つと思うのですがいかがでしょうか?
更に人物評価で三成や隆景と比べるもの疑問大有りです。三成は小と言えども領主であり、それを兼続と比べるのはおかしいでしょう。また上杉家という大組織の中では小国に比べて個人的業績が目立ちにくいと言うこともあるでしょう。それに隆景が何でいきなり比較対照として出てくるのか良く分かりません。活躍時期が戦国期の隆景とそれを抜けたある程度平和な時期の兼続、主君が20年下の甥である隆景と四歳年長である兼続と、これだけ環境が違うのに隆景を出してくるのは明らかに例示としておかしいと思います。更に

>実例として、関ヶ原で領内に軍事的負担を領民に課した

なんてそんなので非難されては敵わんでしょう。更に更に最上義光と戦ったのに・・・、と言うのは真の敵は家康だからなのではないですか?それまで無駄な消耗を避けたかったと考えられませんか?

とまあ、何かいちゃもん付けみたいになって申し訳ないのですが、それだけこの文章には疑問が多いです。少なくともこれらの根拠を持って兼続を愚将であるとするのは納得いきません。正直、私にはこれに関する知識がほとんどないので改稿も出来ません。識者の方にお願いしたいです。らりた 2005年9月27日 (火) 12:46 (UTC)[返信]

謙信が兼続を重宝しなかったと書かれてありますが当時の兼続が謙信に直接 仕えていたという可能性は低いと思われます。謙信の小姓と書されている史料も ありますが発生の遅い軍記にしか見られず、比較的早い時期に書かれた文献には 景勝に近侍していたと書かれているものが多いです。樋口という姓の者が上田衆の 中にいくつか見られるので樋口家出身の兼続が上田長尾出身の景勝に近侍していた 方が説得力があり、謙信の小姓だったというのは後世に出来た創作でしょう。 謙信にとって陪臣の立場であり謙信存命中、兼続はまだ10代だったことを考慮しても 重臣として扱われていなくても全然不思議ではありません。 むしろこの時点で重臣として扱われているほうが不思議です。それとも10代の頃から 重臣として活躍してなければ凡将といわれるものなのでしょうか?

また、景綱は私も名臣だと思っておりますが、上で述べられているように 隆景と比べるのと同じようにおかしいと思います。景綱以外にも側近(奏者)として 活動している者が数人いた謙信時代と、ほぼ一人で執政としての活動していた兼続を 同じように比較することも疑問です。 三成と比べて善政を敷いたとはいえないとありますが実際は米沢時代だけみても 立派な民政家として評価されていますよ。

出奔前に信吉の一族を殺害したというのは私はこの辺りの時期は知識不足なので出来たら 出典を教えて頂けると有難いのですが…(すいません)聞いたことないもので…。 それといきなりシミュレーション作品を引き合いに出すのは事典としてどうなのでしょか。--以上の署名のないコメントは、61.118.52.113会話)さんが 2005年10月1日 (土) 17:54 (UTC) に投稿したものです(Ziman-JAPANによる付記)。[返信]

出展の明記されていない一部だけコメントアウトしようと思ったのですが、その結果見出しと内容が一致しないと言う状況に陥ったので結局全文をコメントアウトいたしました。ノートで話し合い、合意を達成してから編集を行っていただければと思います。--Snow steed 2005年10月3日 (月) 18:58 (UTC)[返信]

この私のコメントアウトについてですが、信吉の一族を殺害については上にあるように出典をお願いします。それから「兼続の態度には関心できないものがあるから、鷹山までこのような低評価があったとしても、やむを得ないだろう」と言うのは個人的意見だと思うのでコメントアウトしました。らりた 2005年10月4日 (火) 08:51 (UTC)[返信]

[1]サイトさんなどでも藤田信吉の家族が処刑されたという記述がありますね。ですから、全くの嘘でも無いようです(ソース自体は分かりませんでしたが)。ですが、信吉が敵対する徳川に寝返った以上、家族が処刑されたというのは、戦国時代の遺風が残るこの当時であれば当然に行われた法的な制裁であって事実であったとしても兼続が非難を受けることは無いと思われます(既に死法である戦国法の「喧嘩両成敗」を持ち出して吉良上野介を討ち取った赤穂浪士でさえ、法的には明らかな違法であるのに、倫理的には非難を受けなかったのですから)。--210.196.189.19 2005年10月4日 (火) 09:11 (UTC)[返信]

一族が殺されたのは栗田国時の方ですね。ただし当時幼かった男児は助かって庄内酒井家に仕えてます。藤田信吉の方は家族、家臣と共に江戸に入ってますからこの時は信吉の一族は討ち取られてはいないのでしょう。それと城攻めは野戦と違って攻める側は城側に比べて多くの兵を必要とするものですから簡単に数の比だけで批評するべきことではないと思います。上杉は長期戦を予想しての戦略をとってますから関が原の戦いがたった一日で終わってしまったのも配慮すべきではないでしょうか。--以上の署名の無いコメントは、61.214.215.41会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2005年10月4日 (火) 17:30‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

謙信と兼続の関係の信憑性について[編集]

 >兼続は謙信の近侍や小姓であったと同時に、謙信がその生涯において最も寵愛した衆道の相手であった。

謙信と兼続の主従関係、および衆道関係を明示する一次史料の存在は、現段階の研究で確認されていない筈です。 以前のノートの記述にもありますが、生前の謙信と兼続の関わりを示す記述は、俗説が混在した価値の低い二級・三級史料に散見されるのみではなかったでしょうか? したがって、兼続が謙信の近侍・小姓であり、同時に寵愛した衆道の相手であった、とする版を、より適切であろうと考えられる前の版に戻しました。 今後、謙信と兼続の衆道関係を強調する記事を編集されたい方は、それを示唆する史料を出典として明示し、その信憑性について触れたうえで記述くださるようにお願いします。

どうにも過去の履歴やノートを拝見するに、上杉謙信・景勝、直江兼続の(とくに男色関連)事項について、個人的な願望と受け取られかねない内容で編集されている方が目につくようです。 関連する「衆道」「同姓結婚」などの項目でも、謙信と兼続の同性愛関係を、史実であるかのように断言調で記述されていますが、閲覧者のミスリードを誘うものと思われかねませんので、ご一考いただきたいと思います。 なお、そうした同性愛がらみの多数の項目で、景勝と清野長範の関係を、これも史実と言い切った内容でさまざまに編集されているのを見ましたが、 信玄と高坂、政宗と只野作十郎のように、衆道の関係を明らかに示唆する書状など一次史料が残っておりましたでしょうか?(そうでしたら不勉強にて失礼いたします、ご教示くださいますようお願いいたします) 個人的にも可能性は高いと思っておりますので、記述そのものを否定するものではありませんが、公正な視点で人物を見るにあたり、信憑性の高い史料によって確実と目されていること以外は、 出典の明示と、その史料的価値にも触れ、説・見解として提示するべきではないでしょうか。

また、男色のことを除外しても、史上その密接な関わりを否定できようはずもない景勝と兼続について、 関連項目からお互いの名を何度も削除するなどの行為は、百科事典としての役割を著しく阻害するものですから、お心あたりの方にはどうぞご自重いただきたいと切に思います。

なお、上杉景勝の名について、概略や謙信時代の項目文中ですべて長尾顕景に置き換えられていましたが、閲覧者の混乱を招かないよう修正しました。 --61.45.192.19 2008年1月7日 (月) 11:41 (UTC)[返信]

謙信と兼続の関係について、「深く寵愛」など、史料的事実から全くかけ離れた文章の粉飾がなされていますが、客観的な記述を要する事典にはそぐわない形容ですので、修正します。謙信との関係を示唆する信憑性のある史料は、無いと「言われている」のではなく、実際に「無い」のです。今後発見されたら記述を編集すればよいのではないでしょうか。 また、関連項目中、景勝を下に下げるための入れ替えをされたようですが、人名は上にまとめます。 --202.239.241.30 2008年2月13日 (水) 12:24 (UTC)[返信]

謙信と兼続の関係について、以前から指摘されているように、信憑性のある史料は全くないのです。一通でも残っていれば、喜んで研究者たちは発表するでしょう。ここ数日投稿されている方の履歴を見ると自説を主張したいがために、強引な編集をされている感じがします。特に、「豊臣秀吉」のノートでは、他の方の意見を無断削除されていましたが、これは投稿ブロックの対象となる悪質な行為です。--Thomo 2008年5月5日 (月) 15:49 (UTC)[返信]

上杉景勝と直江兼続との男色関係を編者は「一次史料に見出せないから」という理由で否定しようとして居るかの印象を受けます。 しかし、 景勝の女性に対して淡白な点や49歳まで一切、子を儲けなかった事実から見ても、彼(景勝)が男色好きだったことは容易に理解出来る筈です。 当時男色が盛んだったことから鑑みても、美男子の兼続との間に衆道関係があったことは想像に難くありません。 もう少し男色を称揚していた戦国期の時代背景に就いて学んで欲しいものです。 ウィキペディアは偏向の無い「客観的記述」ないし記載が求められているのですから、今のままでは通用致しません。 編者の猛省を促す次第であります。

2009年4月20日 (月) 05:21・05:36 124.255.13.206 (会話)-以上、ノート履歴に従って投稿者並びに投稿時間を追記、段落書式修正。--123.255.132.124 2009年4月20日 (月) 16:19 (UTC) --ガイドラインに従い、上記投書内の個人攻撃的な文章を除去、並びに表現の訂正。 124.108.210.74 2009年7月16日 (木) 14:31 (UTC) 編集追記文末へ移動、表現の訂正等追加。124.108.210.74 2009年7月17日 (金) 11:29 (UTC)[返信]

つまり、資料によらず想像で書いていることは自ら認めているわけですね。偏向の無い「客観的記述」ないし記載が求められているのですから、それでは困ります。--119.240.174.138 2009年5月16日 (土) 05:31 (UTC)[返信]


客観的な記事の意味が理解されていないようですね。一次史料だけが絶対的では無いという事実も分からぬ御仁では遺憾ながら対話は平行線を辿るだけでしかありません。 歴史理解というのは、当時の時代背景・風習・その他諸々の事象に関する知識が無くては出来ないのですよ。 --124.255.15.75 2009年5月18日 (月) 07:47 (UTC)[返信]

一次史料には無いとした上で記述を望まれるのでしたら、「一次史料にはないが当時の社会状況から、後代に言われたように直江兼続に男色関係が有った」と主張する学説・論文・書籍を挙げた上で執筆すればよいでしょう。「戦国時代の男色関係」の参考文献ではありません。「直江兼続の男色関係」の参考文献です。「時代背景・風習・その他諸々の事象に関する知識」から、wikipediaの執筆者が結論を導き出してはいけません。Wikipedia:独自研究は載せないをご覧下さい。なお出典が明示されても、有力でない・定説化していないなどと指摘されれば、俗説や異説として記述される可能性もあります。ご了解下さい。--KurmUmy 2009年5月18日 (月) 10:31 (UTC)[返信]

直江兼続が美男子であったという前提自体一次史料にはない後代に出てきた話ですね。当時としてはかなり大柄な男性であったことは残されている伝直江兼続所蔵の鎧の大きさから推測されていることですが。上杉景勝と直江兼続が衆道関係にあったという話は藩翰譜が初出であろうと思いますが藩翰譜は記述が信憑性に乏しいと見られています。上杉景勝が女性嫌いであったとする奥羽永慶軍記も記述に明らかに史実と異なる話が多く信憑性が乏しいです。--Agira 2009年5月19日 (火) 07:16 (UTC)[返信]

越後での産業に関する兼続の功績について[編集]

「安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めた。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維で本座といい、魚沼郡に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重なものであった。蒲生氏の支配時期においても青苧は特産品であったが。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げた。京都へ輸出することを献策したのは、西村久左衛門乗安であった。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。」

 上記内容については、出典があるにはありますが、すべて信頼性に欠ける文献です。直江兼続が越後で新田開発を奨励した事実はなく、越後の農業政策に関わったことなど聞いたこともありません。越後の平野部で新田開発が進んだのは江戸時代以降です。

 青苧は、古代から越後の特産品であり、直江兼続が越後の青苧を増産させたなどという話はありません。もしかしたら、米沢での功績ではないでしょうか。--106.72.144.32 2023年5月21日 (日) 00:01 (UTC)[返信]