ノート:由利十二頭

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

由利十二頭という呼称[編集]

「「十二頭」とは後世の軍記物に見える用語」とありますが,天正年間の古文書(藤田文書,東大史料編纂所架蔵影写本,天正15年10月22日最上義光書状写)に見えており,少なくとも,織豊時代まで遡る呼称です. 安部 俊治「庄内占領を記す未紹介の最上義光書状7について」『本間美術館だより』第5号,4ページ,1999年 に上記の古文書が紹介されています. 「「十二頭」とは少なくとも天正年間以来の呼称」と変更するのがよいと思います. --ty270410 2008年3月14日 (金) 13:38 (UTC)[返信]

赤尾津氏に関して[編集]

慶長4年以前は「赤宇曾」と呼称され,関が原役前後から「赤尾津」という呼称に変わったことが,古文書から確かめられます. 『本荘市史』史料編I上,1984年 を参照してください. 「室町中期には小助川氏を称し」とありますが,古文書では「小介川」です.上記『本荘市史』の403ページを参照してください. 小介川氏の末裔である江戸時代の矢島藩の家老や,旧岩屋町中帳の旧家などが,小助川を名乗っています. 「室町中期には小介川氏を称し」と変更するのがよいと思います. --ty270410 2008年3月14日 (金) 13:38 (UTC)[返信]

上記2点について、反映させました。このような出典のある記事訂正については、直接編集して頂いていいと思います。--ろう(Law soma) D C 2008年3月17日 (月) 00:04 (UTC)[返信]