ノート:田中貴子 (国文学者)

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転載疑い[編集]

似てるのはこれですかね。削除依頼に出すかどうかは微妙なところです。経歴ははてなと似ていますが、普通に書けばこうなるでしょう。著書の部分と似たようなページは見つかりませんでした。--BitBucket 2006年7月12日 (水) 09:23 (UTC)[返信]

本文から転記[編集]

「脚注」にある丸谷才一『輝く日の宮』の大河内篤子=田中貴子がモデル、という説は小谷野氏の勝手な妄想であり、丸谷氏は私のことなどまったくご存じないはずです。 そもそも、私は講演に着物姿で行ったりしないし、しゃべり言葉は完全な関西弁ですよ。「脚注」つけた方はあまりいい加減なことを書かないほうがいいでしょう。(田中貴子・記、2008.7・5、念のため、本人です。WIKIPEDIA編集者もちょっと常識をわきまえるべきです、大変迷惑です)--本文にあったIP:211.124.132.88会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのコメントを転記--菊地 英仁会話2008年10月16日 (木) 03:29 (UTC)[返信]

WP:AB#ウィキペディアにすでにあなたについての記事があるときをお読み下さい。--菊地 英仁会話2008年10月16日 (木) 03:29 (UTC)[返信]

自分の記事を編集してもよろしいですが、丸谷が著者である田中貴子を知らない理由はどこにもないはずです。人から聞いてもいいわけだし、想像なのですから、別に構わないのではありませんか。--以上の署名のないコメントは、125.0.84.57会話/Whois)さんが 2009年3月17日 (火) 07:13 (UTC) に投稿したものです。[返信]

小谷野敦の項目の編集履歴を見ると、田中貴子さんを名乗るIPと同じIPから小谷野さんを誹謗するような編集がたびたび行われているのですが(たとえば[1] [2] [3])、これも田中さんによる編集なのでしょうか? --Keysrapid 2009年3月17日 (火) 08:17 (UTC)[返信]
追記。この編集も同じリモホのようです。--Keysrapid 2009年3月17日 (火) 17:34 (UTC)[返信]

「於江与君」[編集]

福田千鶴が「於江与君」と書いていることなどを一切無視してここで議論するのはやめてください田中さん。--以上の署名のないコメントは、125.2.99.105会話)さんが 2009年4月22日 (水) 10:57 (UTC) に投稿したものです。[返信]

『淀殿』の中で福田氏は「於江与君」については、近世の「徳川幕府家譜」でも用いられていることなどから一定の留保が必要(4ページ)と書かれているだけです。これ以外の箇所で言及があったら、申し訳ありませんが、正確なページをお知らせください。「徳川幕府家譜」の当該個所は41ページで引用されていますが、そこでは敬称に関する論考はなされていません。

また125.2.99.105さんは2009-04-22T10:56の加筆で

将軍夫人が「於江与君」などと書かれていることから、田中の論は成り立たないとされた。

と書かれていますが、福田氏が『淀殿』の中のどこで田中氏の論を「成り立たない」と論じられたのか、見つけられませんでした。正確なページ名をお知らせ下さい。

なお福田氏は、辻ミチ子氏の『女たちの幕末京都』から以下の記述:

(前半省略)この場合の「君」は室町時代に売春婦を「立君」とか「辻君」と呼んだ、卑しめの意味が込められていたものであった。それが茶々が正当に評価される中で、心して淀殿というようになったのである。

を引用し、続けて「こうした理解に立つ研究者は多く」と紹介しています。つまり、「君」に卑しめの意味を読みとることは「田中の論」と名付けられるようなオリジナルなものではなかのであり、「田中の論」と呼ぶことはミスリーディングです。--miya 2009年4月23日 (木) 04:46 (UTC)[返信]

2週間以上反論もありませんし、そもそも「淀殿」-「淀君」の呼称に関する論考は淀殿に書くべきこと(というか、すでにあちらで論じられていること)であるため、のちほどコメントアウトいたします。--miya 2009年5月5日 (火) 08:13 (UTC)[返信]