ノート:王政君

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王政君の記事の改変内容について[編集]

以前の記事では、「しかし成帝の誕生には、次のような話も伝わっている。当時、愛妾に先立たれていた劉奭は、そのショックで誰も女性を近づけなかった。この時、劉奭に子供はおらず、かねてから、彼の資質に不安を抱いていた宣帝はこれを機会に劉奭を廃嫡したい旨を内々に洩らし始めた。これを聞いて慌てた、劉奭の育ての母(元帝の生母・許氏は早くに没した)で皇后の王氏(王政君とは同姓の他人)及び劉奭の側近達は彼に早く子供を儲けることを求め、やむなく劉奭が寝所に呼んだのが王政君であった」と記されていましたが、『漢書』で確認したところ、宣帝が劉奭の資質に不安を抱いていたのは間違いないですが、このことを理由に、宣帝が劉奭を皇太子から廃嫡したいという考えた部分は確認できませんでした。そのため、この部分は除去しています。

以前の記事では、「宣帝は孫の誕生を喜び、自分の手許で劉驁を育てることに決めた」と記されていましたが、宣帝は劉驁(後の成帝)を近くにはおいていますが、自ら育てたかは、『漢書』に明記はされてはいないため、この部分は除去しました。

また、「(ちなみに、劉驁の名付け親は宣帝であり、その字・太孫(嫡孫の意)も彼が名付けたものである。このことから、如何に宣帝がこの孫の誕生を喜んだかが伺えよう)」という意見には同意はしますが、あくまで個人の意見と思われますので、「Wikipedia:中立的な観点」の問題から、除去しています。

「王政君自身は、王莽が簒奪を行うことに反対で、寧ろ漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく」と記されていましたが、王政君は、王莽が漢王朝から禅譲を受けることには反対していたようですが、哀帝の時代は王氏を退けるようにしており、「漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく」の部分については、明確ではありませんので、「Wikipedia:中立的な観点」から、この部分も除去しています。

「ちなみに、この時投げつけられた伝国璽は、一部が欠損したといわれる。」と記されていましたが、伝国璽が欠損した話は、『漢書』や『資治通鑑』など史料にはありませんでした。『三国志演義』などの後世の創作かもしれないので、除去しています。--Mamme会話2022年7月30日 (土) 22:20 (UTC)[返信]