ノート:洞爺丸

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沈没[編集]

日本の重大海難の採決によると沈没したと書いているのですが実際の所はどうだったのでしょうか?

--203.138.175.143 2005年12月26日 (月) 11:08 (UTC)[返信]

洞爺丸は、台風15号の激浪による船尾からの浸水で機関が停止し、函館近く(西側)の七重浜に自ら座礁しました。遭難を免れようとする船長の最後の措置でしたが、激しい浸水で浮力を失い、転覆してご承知の通りの大惨事にいたりました。洞爺丸は船腹を出して浮いていましたので、常識的な「沈没」には当らないと思いますが、海運あるいは海難審判関係ではそのような状況をどう言うのか、当方にも知識がありません。不完全な記述で申し訳ありませんが、一言述べさせていただきました。61.122.217.180 2006年1月12日 (木) 08:35 (UTC)[返信]

規模 [編集]

戦争を除いて世界第三番目の死者数という記述がありますが、ウィキペディアの”海難事故”を参照すると、アフリカで死者1800人以上出した事故例などが載っており正しい情報なのか疑問に思ったのですがどうなのでしょうか?


犠牲者[編集]

犠牲者数の記述に疑問があります。 本文では「乗員乗客あわせて1139人が死亡または行方不明となった」となっていますし、一連の遭難事故全体の数も「一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り」となっていて、海難審判庁のサイトにある「日本の重大海難」の記述によれば「乗客1,041人、乗組員73人、その他の者41人の計1,155人が死亡した」とあります。どの数字を取るべきか迷いますね。220.146.147.130 2006年9月26日 (火) 15:28 (UTC)[返信]

大量の乗員・乗客がある船舶の遭難に際しては、乗船人員の把握不備による犠牲者数の不確定がしばしば見られます。1865年のサルタナの例では、乗船現場の混乱のため乗船した人数の把握がなされず、犠牲者は最低でも1450人とされ、1700人以上ともされています。タイタニックの事例では、上級船室の乗客数はわかっていますが、最下層の移民の乗客数がはっきりせず、最低でも1490人、他に1513人、1517人など幾つもの数字が挙げられています。洞爺丸の場合は、出港予定時刻から4時間も遅れての出港であったため、その間に、乗船をあきらめて下船した人もおれば、遅れて来て乗り込んだ人もあり、乗船者名簿と実際の乗船者が一致しないため、1139人と1155人の2種の値が通用しています。大体、1139人という数が引用される事が多いようです。なお、アフリカで1800人以上の死者という事故は、当方の目が節穴のためか、「海難事故」の中からは見つけ出せませんでしたが。61.122.217.180 2007年2月1日 (木) 03:44 (UTC)[返信]

2017年8月27日の加筆について[編集]

香川二郎様 出典をお知らせいただきありがとうございました。おかげさまで関連文献を再度見なおす機会に恵まれました。

上前淳一郎著『洞爺丸はなぜ沈んだか』[編集]

上前淳一郎著『洞爺丸はなぜ沈んだか』早速確認させていただきました。私の持っている1980年11月25日第一刷ではp210とp211でした。関係する文面は下記のとおりです。以下【】内は引用です。

p210 1行目 【そんな混乱の中で、突然船は右への傾斜を大きくした。ついに、最後の命綱だった左舷錨鎖が切れたのだ。そのまま洞爺丸は、真横に近い位置まで倒れた。】

p211 1行目 【下部遊歩甲板の踊り場にいる渕上助教授は、錨鎖が切れて船の傾斜が大きくなりはじめたとき、】

そのほかp219 10行目 【理由はいくつか考えられる。ひとつは、運悪く風浪で海底に堆積した砂につかまってしまったこと。また錨鎖が切断し、そのはずみで積んでいた貨車が横転したこと。そしてなにより第六真盛丸のエンジンは最後まで生きていたのに、洞爺丸のそれは車両甲板からの浸水で早いうちに止まってしまったことだ。】

またWikipedia『洞爺丸事故』の記事内の22時43分頃の項の記載は承知していますが、これにも出典の記載がありません。

日本の重大海難汽船洞爺丸遭難事件 国土交通省海難審判所[編集]

なおこの『洞爺丸事故』で出典番号4番 6~12番となっている日本の重大海難汽船洞爺丸遭難事件 は記事の中でも書かれている通り、昭和34年2月9日の洞爺丸遭難事件の第二審裁決の要旨ですが、ここには錨鎖切断やビルジキール引っ掛かりについての言及はありません。

この『日本の重大海難汽船洞爺丸遭難事件』の「結論」の関係部分は14行目~19行目で、以下【】内が引用です。

【本船が横転沈没するにいたった直接の原因は、防波堤外に出航し、暴風及び高浪のため操船が困難となり、投錨して機関及び舵を使用し船位の保持に努力中、風浪による船体の激しい動揺と振れ回りに伴い、船尾の大開口から車両甲板に波浪が奔入して、同甲板の諸開口から同甲板下の機械室及び缶室等には多量の海水が浸入するのを防止することができず、そのため諸機関が相次いで運転不能となり操船の自由が全く奪われ、排水能力が極度に低下して、復原力を減少しつつ走錨圧流されているうち、後部船底が底触し、風浪を側方より受けるようになって、さらに多量の海水が舷しょうから浸入し、遂に復原しなくなったことにある。】

錨鎖切断にも漂砂にもビルジキールにも触れていません。

田中正吾著『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』[編集]

田中正吾著『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』1997年3月初版 の中から洞爺丸横転の部分を抜粋しました。(本書はWikipedia『洞爺丸事故』でも複数個所で出典となっています)以下【】内が引用です。

p77 12行目から 【10時41分洞爺丸から「本船500キロサイクルにてSOS よろしく」 10時44分桟橋「船内状況浸水なるや 至急変事乞う」 しかし、洞爺丸からは返事はなかった。 襲いかかる巨浪の一撃ごとに、右舷への傾きを大きくしていった洞爺丸は、午後10時43分遂に横転し波の間に沈んだ。

p78 七重浜から700m沖、水深8mの地点である。

転覆 船が砂浜に乗り揚げれば、そこに座ってしまうのが普通である。生き残ったY二等運転士は「大変な海難事故になったと思うと同時に、苦労は終わった」といい、K三等運転士は「乗り揚げたあと転覆するとは夢にも思わなかった」と語っている。

それが洞爺丸の場合、渚から700m沖に転覆して135度までひっくり返ったのはどうしたわけであろうか。乗り揚げたと思ったのは、悪魔の欺瞞であったのか。あとでそのミステリーは解明されるのだが、嵐のため海底の砂が移動して沖に浅瀬をつくった-漂砂現象という-ところへ乗り揚げたのだった。】

p155 6行目から 【横転沈没 七重浜に乗り揚げたのなら、大事件にはならなかったと誰しも思うところだが、それが大惨事になった。

1948年から56年までの日本船の乗り揚げ事件は236件で、船底が岩礁などによって一点支持またはそれに近い状態になるか、積荷が移動して船体の安定を失った場合以外は、全部安全に座洲している。この日の洞爺丸と同じように函館港外から走錨して七重浜に乗り揚げた第六真盛丸は、安全に擱座して洞爺丸からの遭難者を救助している。しかし、洞爺丸は船底が海底にドドーンと乗り揚げたのに、遂に横転して、135度まで転覆してしまった。何故か。

台風の大波でかきまわされた海底の砂が、七重浜沖1000mに浅瀬をつくった。これを漂砂現象というが、洞爺丸が触底したのはこの漂砂による浅瀬であることは、あとの調査で明らかにされている。

先の東大実験(1955年2月25日鑑定書提出)でも座洲実験が行われたが、何度繰り返しても横倒しにはならず安泰に座り込ん(ここからp156)で動かない。それではと模型水槽に毛布など摩擦の多いものを敷いて実験しところ、片舷のビルジキールがそれに突きささり外れないうちに次の波が襲い横転してしまった。転覆した洞爺丸の船体は右舷ビルジキールが脱落している。そこで、右舷ビルジキールが海底に突きささり一点支持になっているところへ大波が来襲して覆没したと推定された。

それでは何故135度まで転覆したのか。洞爺丸の沈没地点は水深8.4mである。触底してから沈没まで17分である。幅300~400mの浅瀬の上で安全に座洲する前に、右舷のビルジキールが海底に突きささり、横転して流されているうちに深みに落ち込んだとみるのが自然である。】

小冊子『台風との斗い』[編集]

函館の摩周丸で販売されている(今も販売されているかどうかは不明) 小冊子『台風との斗い』(山口恒久執筆)特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011年5月10日発行、以下【】内が引用です。

p8では 【転覆直前に積載車両は横転し、左舷錨鎖は切断しました。】 と記載されていますが、「船体を支えていた」という文言はありません。

巻末のp19に、【漂砂の小山にビルジキールがひっかかり、これが支点となり転覆したのではないか、とされています。】

『洞爺丸台風海難誌』[編集]

『洞爺丸台風海難誌』国鉄青函船舶鉄道管理局1965年11月30日 以下【】内が引用です。

P76 7行目から 【そのときは、右舷発電機も、機関室ビルジポンプも運転を続けていた。その後状況はいよいよ危険な状態となってきたので、22時38分頃船長は、「SOS」の発信を命じ、22時39分にこれを発信した。そのときの船体の傾斜は45度くらいであり、風、波浪はともに左舷45度くらいから受ける状態となり、間もなく照明も消えた。22時41分ごろ、函館桟橋長あて、「本船500キロサイクルにてSOSよろしく」の通信を最後に連絡は絶えた。

そのころ船体はますます右舷に傾斜を増して、22時43分ごろ横転沈没したものと思われる。その後の調査で沈没位置は、函館港西防波堤灯台から真方位337度2500mの地点であり、船体は船首を北西に向けて135度まで横転して沈没していることがわかった。】

これにも錨鎖切断の記載はありません。漂砂、ビルジキールの記載もない。

『復刻・台風との斗い』[編集]

『復刻・台風との斗い』特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011年5月10日発行 (この本は1955年に洞爺丸台風海難に遭遇され、生き残られた船員さん達の手記を掲載した国鉄部内非売品本を2011年復刻、函館摩周丸で販売された)

洞爺丸横転関連はp17、18 p26 p42 p44、45に記載されていますが、 これにも錨鎖切断の記載はありません。座礁はあるが、漂砂、ビルジキールの記載はない。

坂本幸四郎著『青函連絡船』[編集]

坂本幸四郎著『青函連絡船』1983年10月21日発行

p162~177に洞爺丸転覆時のことが記載され、上前さんの『洞爺丸はなぜ沈んだか』にも登場する渕上助教授が出てこられますが、錨鎖切断の記載はありません 。 p211には1959年2月9日の高等海難審判庁の第2審の結論の要約文が掲載されています。出所が同じですから、すでに引用した『日本の重大海難汽船洞爺丸遭難事件』の結論の14行目~19行目と文面は異なりますが内容はほぼ同じです。 もちろんこの部分では錨鎖切断も、ビルジキール引っかかりも出ません。

海難審判裁決では、東大実験(1955年2月25日鑑定書提出)で明らかになったビルジキール引っかかり現象は重視されず、「座洲時には既に多量の浸水で復原力をほとんど喪失していた」とされたわけです。

1959年2月9日第二審議決では結局「本件遭難は、洞爺丸船長の運航に関する職務上の過失に基因して発生したものであるが、本船の船体構造、青函連絡船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。」とされ、国鉄は敗訴しました。

荒木善之著『洞爺丸遭難事件第二審議決に対する意見』[編集]

さらに坂本幸四郎著『青函連絡船』p215~229・田中正吾著『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p171~173

これら2冊によると 第二審敗訴に対し、1959年4月8日から5月31日まで、当時の国鉄側の責任者であった船舶局海務課長の荒木善之氏が『洞爺丸遭難事件第二審議決に対する意見』という批判論文を『日本海事新聞』に連載した。論点は以下の三つであった。

気象予報の問題(事故当日夕方から夜にかけて気象台は的確な予報をしたか? 船長はあの不可解な台風の動向を予測できたか?)

堪航性の問題(船尾開口部のから大量浸水した問題)

横転の問題(240トン程度の浸水であれば復原力は十分あり、ビルジキールの引っかかりがなければ横転しないはず)←この3点目についてはビルジキール引っかかりだけなら「不可抗力」復原力喪失なら「船体構造の欠陥」になる(矢印以降はAkoihinが追加)

このあと国鉄は高裁、最高裁へと上告しますが、本質的審理はなく、いずれも法律論で門前払いされました。

青函連絡船 4正史[編集]

『青函連絡船50年史』 国鉄青函船舶鉄道管理局1957年

p200、201 海難審判庁の要約文に近い。

『青函連絡船史』 国鉄青函船舶鉄道管理局1970年

 p459 第十一青函丸以外の他船と一括記述、座洲の記述すらない。

『航跡』国鉄青函船舶鉄道管理局1978年

p223海難審判庁の要約文に近い。

『青函連絡船栄光の航跡』  JR北海道1988年

p336 p343座洲の記述はあるが復原力の記述なし。

以上の青函連絡船の正史であるこの4冊では、発行元の立場上、海難審判庁の文面から逸脱できなかったのでしょう。

坂本幸四郎『わが青春の青函連絡船』[編集]

坂本幸四郎『わが青春の青函連絡船』1989年6月16日発行

p60~62では1983年の前著『青函連絡船』と同様で、東大水槽実験でのビルジキール引っ掛かり現象も、漂砂も記載されています。

結局、漂砂とビルジキールに言及しているのは、坂本幸四郎さんの本2冊と田中正吾さんの本と小冊子『台風との斗い』の4冊で、この件は1959年の荒木論文が『日本海事新聞』に掲載された時点で、日本の海事業界には認知されたが、公式には必ずしも認知されたわけではない、ということでしょう。

私は荒木論文は読んでいませんが、横転の問題については、坂本さん田中さんの著書に要約されているものと推察します。

「船体を支えていた左舷の描鎖が切断」考[編集]

そこで本題ですが、8月27日に香川二郎様が加筆されました

『22時43分頃「船体を支えていた」左舷の描鎖が切断し右側へ横転沈没し、』の一節ですが、私の調べた限り、香川二郎様ご指摘の上前淳一郎著『洞爺丸はなぜ沈んだか』だけです。この本は私も何回か読み、ノンフィクション小説風にすることで登場人物に命が吹き込まれ、それまでに読んでいた洞爺丸沈没時の時系列の無味乾燥な解説文に比べ、抵抗感なく引き込まれるように読めた印象深い本です。

ただ『なぜ沈んだか』の最重要部分である最後の横転部分は、すでに引用済ですが、p210 1行目、p219 10行などで、漂砂を意味する記述はありますが、ビルジキールには言及されておらず、また読み方によっては錨鎖が切断してなければ横転はなかった、とも読み取れます。

坂本幸四郎さんや田中正吾さんの本では錨鎖切断の話は一切出ません。私が持っている海難審判庁の、沈没時に洞爺丸操舵室で操船されていた7名の方々の事故数日後の質問調書では、「錨鎖は切れましたか」という質問に対し「切れた」という返答はありません。大嵐で分からなかのでしょう。

残念ながら『洞爺丸台風海難誌』では、引き揚げ後の洞爺丸の錨鎖の切断の有無の記載を確認することはできませんでした。

しかし小冊子『台風との斗い』では【左舷錨鎖は切断しました。】とあるので、これは事実なのでしょう。

しかし錨鎖が「船体を支えていた」となると、これが切れるか切れないかが横転するか否かのカギを握ることになり、海難審判でも言及されるはずです。当然、坂本幸四郎さんや田中正吾さんの本にも登場するはずですが、全く出てきません。これは、錨鎖切断が横転に大きく影響を及ぼす事態ではなかったことを意味します。

上前さんの『洞爺丸はなぜ沈んだか』のp250の「あとがき」では、海難審判の記録だけでなく、当時の多くの関係者のも面接インタビューを行い段ボール箱5個以上になり、これらを正確に引用した、という意味の記述もありますので、その中に、「船体を支えていた」という発言もあって、p210のような記述になったのかなと推察します。

ただ亡くなった船長や一等航海士の場合は推測もあるとのことで、どこまでが事実で、どこからが推測なのか、の記載がないため資料性が低下しているのが惜しまれますが、小説分が濃くなって読みやすくなっています。

まあ多少は「船体を支えていた」かもしれませんが、そのような本質にかかわらないと推察される事項はたとえ上前さんの『洞爺丸はなぜ沈んだか』に記載があったからとはいえ、Wikipediaには記載すべきではないものと私は考えます。

Wikipedia:中立的な観点 を見ますと

【深刻な論争がある主張を事実として記さない。 もしその主張について異なる信頼できる出典間で衝突があるのなら、その主張については事実ではなく意見として扱い、文中では直接その主張を記述することは避けてください。】とあり、上前さんの『洞爺丸はなぜ沈んだか』を“信頼できる出典”としたとしても、せいぜい脚注に記載する程度かと私は考えます。


8月27日にはこのほかにも香川二郎様には有用な加筆をしていただきありがとうございました。ただ一部、違和感のある個所がありましたので・・

船長の心の内[編集]

【台風の目の通過を信じて疑わなかった船長は】という心の内の描写は、

多分そうだたでしょうが、その少し前に「それを誰もが台風の目と信じた」とあるのに、あえて強調する必要はありますか? 小説ならそのほうが受けますが、Wikipedia:大言壮語をしない に抵触しそうですし、出典もありません。

座礁の決意?[編集]

【ここに至って近藤船長は遠浅の七重浜への座礁を決意する。七重浜までの距離はわずか1200mだった。】

座礁を決意するもなにも、「単に機関故障のため航行不能となって座礁した」だけですよね。 田中正吾さんの『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p76では船長が「本船は七重浜に座礁する」と命じた、ことになっていますが、命じたというよりは予測しただけで、「皆さん救命胴衣を着けてしっかりどこかにつかまってなさいよ」程度で、“決意する”は不自然なように感じます。

【七重浜に座礁を試みたのは他に選択肢がなかったとはいえ最善の策であった。現に洞爺丸と並行して流された貨物船の第六真盛丸(2209t)は七重浜数十メートル沖に座礁し、43人の乗組員は全員無事だった。】

「選択肢がなかったとはいえ最善の策であった」?? この文章なんとかなりませんか?

それに第六真盛丸の諸情報出典もつけていただければ幸いです。

百科事典の記事は、物事を淡々と、大げさな形容詞は使わず、客観的に書くのが基本だと思います。

以上、わかりにくい超長文になったことをお詫びします。 --Akoihsin会話2017年9月11日 (月) 14:53 (UTC)[返信]

訂正 --Akoihsin会話2017年9月12日 (火) 09:46 (UTC)[返信]

2024年1月1日の削除について[編集]

2024年1月1日のMJ6feet6様により、『詳細は「洞爺丸事故」を参照』の誘導のもと、「洞爺丸沈没」部分はバッサリ削除されました。 私はこの「洞爺丸」の記事で、船体構造等を詳説した後に、洞爺丸沈没に関する事項も、主として、科学技術的な観点から、出典を挙げつつ記載しております。それは、船の構造が分からなければ、事故の詳細も正確に記述できないからです。 さらに、誘導先の「洞爺丸事故」の記事の方には船体構造の詳しい説明はなく、出典なき書き込みだけでなく、事実でない記述も散見されます。そんな方へ誘導されても・・です。 ということで、「洞爺丸」は復元させていただきました。 --Akoihsin会話2024年1月2日 (火) 06:10 (UTC)[返信]