ノート:洋ゲー

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エリアプロテクトの理由[編集]

各国間の通貨為替レートと実際の経済事情の違いから安い販売価格が設定されている地域の製品が(メーカーの意図に反して)別の国で販売され、同国内の販売ルートを混乱させないためや、また各国で異なるレーティング事情に配慮しての措置である。

以上のようにありましたが、これが理由ならば現在においても携帯ゲーム機にプロテクトが存在しないことの説明になりません。そもそも多少の為替レートの違いがあったところで輸入コストのほうが高くつきそうなものですが。--かける 2007年7月24日 (火) 05:50 (UTC)[返信]

ソフトウェア製品でも、携帯ゲーム機の場合は全般的に価格が低く抑えられ結果的に差額がゲームソフト一本当たりで小さい一方、表現力の差やコンシューマーゲームの内でもあまり複雑なルールの作品は発表し難い要素があるのかもしれませんし、また全年齢対応の作品が主要な製品となる携帯ゲーム機と、一定のコア層への働きかけを主眼として全年齢対応ではない作品も豊富に販売される非携帯型コンシューマーゲーム機との差もあるかもしれません。また発展途上国やアジア諸国向けと欧米・日本向けソフトウェア作品では、販売価格がレート換算では明らかに労働者所得との比較で割高感が出てしまう場合に、安い価格で供給することはしばしば行われるところで、これらはあくまでも「そういう理由付けが存在する」という面で、例示の域を出るものでなければ、全否定されうるところではないかと考えます。そういえば任天堂が中国市場専用機として神遊機を投入してましたっけ。もっとも、こちらは不正コピーソフト予防という観点もあったようですが。--夜飛/ 2008年5月9日 (金) 14:47 (UTC)[返信]

洋ゲーの例[編集]

一部コメントアウトしました。主要例とするには歴史が短いものや所定のプラットフォームに限定されるもの、あるいは社会現象として注目を集めたケースなど、特記に値するものだけを例示するほうがいいと思います。--夜飛/ 2008年5月9日 (金) 14:47 (UTC)[返信]

根拠のない記述について[編集]

パソコンゲームの場合、日本国外で製作されたソフトでも日本語版OSのパソコン上でそのままプレイできるようになっている物が大半(勿論、言語表示は製作元のままであるが)であるため、なんら問題なく遊べる。このような市場はPC/AT(日本国内ではDOS/V)普及当初から見られ、1990年代初頭より、DOSゲームの分野でパソコンショップ・ソフト売り場には必ずといって良い程、洋ゲーコーナーが存在していた。

このような事情により、洋ゲーのヒット作を海外メーカーの日本法人や国内パブリッシャーが日本向けにパッケージを含めて言語表示を全て日本語に差し替えたり、中小のバプリッシャーでは日本語のマニュアルを付属させて販売される場合もある。その一方で熱心なユーザーの中には、国外で売られているゲームを個人輸入や海外旅行(または海外出張)の際に直接買い付けるという形で、独自に入手してプレイする者も存在する。また近年では、人気のあるソフトは有志のユーザーが集って日本語化を進め、それをネット上で配布することも行われている。

などなど、「パソコン」の節から引用してみましたが、これらははっきり言って信憑性がまったくありません。『その一方で熱心なユーザーの中には、国外で売られているゲームを個人輸入や海外旅行(または海外出張)の際に直接買い付けるという形で、独自に入手してプレイする者も存在する。また近年では、人気のあるソフトは有志のユーザーが集って日本語化を進め、それをネット上で配布することも行われている。』この「熱心なユーザー」とは誰なのでしょうか、しかもなぜ海外旅行などに出向いたことをしっているかのような口調なのでしょうか、更に『1990年代初頭より、DOSゲームの分野でパソコンショップ・ソフト売り場には必ずといって良い程、洋ゲーコーナーが存在していた。』これもソースがなく、どこのなんというゲームショップなのか確かめるすべもありません。ソースの提示を要請します。--Jerkchance 2011年3月6日 (日) 06:51 (UTC)[返信]

コメント どのような根拠を持って、そのように断言されるのでしょうか?また、指摘に全く具体性が無く、どの箇所が問題なのか(例えば何処其処の資料の記述と食い違うなど)も明らかではありません。「熱心なユーザー」や「DOSゲームの分野でパソコンショップ・ソフト売り場」に固有名詞ないし個々を特定しうる情報が無いという箇所に関しては、文脈から見ても全般の話で、個々のケースを無制限に羅列することももはや意味の無いくらいの一般化された表現に過ぎず、それを個々のケースを挙げるように求めるのは、単一の(言い換えれば特筆性に難のある)ケースを過剰に持ち上げた記述(そしてそれは全般的な事柄を指す説明と相反する)にすべきだと主張されているのと同じことです。
まあ実際問題として、相当な労力や財産をつぎ込んでまでして入手したゲームで遊ぶ熱心な愛好者云々に関しては、週刊朝日の連載『デキゴトロジー』にウィザードリーやウルティマのプレーヤーの話として紹介されていたし、洋ゲーコーナーが存在していたなどという話は1980年代末-1990年代(特にWindows95発売以前)のパソコンショップを知る者なら、もはや改めて書くほどの必要も無いくらいに当たり前の状態だと思いますけどね…まして同時代に日本国内のソフトウェアメーカーはDOS/V版ソフトウェアを業務用にはともかく、パソコンゲームとしてはたいして作品をリリースしておらず、結果的にPC/AT向けパソコンゲームソフトウェアといえば輸入モノか日本語マニュアルが付属しただけのリパッケージ版が主体となって棚に並んでいたのですから。
まあその時代のサブカルチャー事象は資料が卑近な物に偏りやすく散逸しやすいために、なかなか決定的な出典足り得る資料が無いんですけどね。
いずれにせよ、そういうきちんとした根拠(記事内容を否定しうる資料など)を持たない理由付けに基づいて記述除去する行為は執筆コミュニティにも見に来た読者にも混乱しか生みません。それらの記述が検証可能性を満たしておらず不確かなので出典を求めたいという主張の趣旨は判りますが、主張のために記述除去(記事の破壊)するのはお止めいただきたく。--夜飛/ 2011年3月6日 (日) 09:02 (UTC)[返信]
否定しうる判断材料がないのなら、肯定材料もないんですよね?あなたの話ですとどうも自分の「見た」という主張を押し付けているようにしか聞こえません。それに、記事を見に来た自分が実際に見てもいない視聴者が混乱する、というものは出典が明記されてないので、あなたの主張をあたかも全員の主張に捻じ曲げているようにしか聞こえません。第一あなたが「見た」、「聞いた」というのは根拠がどこにも存在せず、「誰でも知っている」という記述にも「誰に」聞けばいいのか確かめようがなく、検証可能性に欠けています。あなたの自己主張ばかりではなく、もっと他の人の意見も聞いてみましょう。これはあなただけの記事ではありません。一人の意見だけで記事の方向性を決めるわけにはいきませんからね、まずは他の人の意見が来るまで待ち、他の人の意見を聞いてみてそれらを念頭において議論する…それがノートページの役割なので、ひとまずお待ちください。すぐに自分ひとりだけで決め付けるのはやめましょう。--Jerkchance 2011年3月7日 (月) 01:15 (UTC)[返信]
というより、小生は今だ否定しうる資料に突き当たった覚えが無いのでほっとく(事実であればいずれ同時代を語る資料によって補遺されるであろう事を見越しての看過・WP:BLPで問題視されるような存命中の人物を傷つけるような内容でもないし)というスタンスです。自身の無知無理解を振り回しても益の無いことですので、否定できるだけの材料が無ければ記事を否定しないという至極当たり前の対応だと思いますけどね。また小生としては、確定的な出典が無ければ明示しません。あやふやなのとか特筆性に疑問が残るもの、あるいは辞書的なありきたりであるために同水準のものが無数に存在しうるものの一つを抜粋して全てを語るような行為は無茶が過ぎると考えています。
まあ、Jerkchanceさんにおかれましては「何を(誰を)参照したら良いか解らない」ということですが、それは文章をどう読んでも「同時代を知る(愛好者・関係者)側の視点」でしか扱われておりませんので、その視点を扱った事柄を捜すべきであって、「誰でも知っている」を「全ての人」などと無制限に扱わず、前提として述べられた「1980年代末-1990年代(特にWindows95発売以前)のパソコンショップを知る者」という前提を理解して欲しかった。
ともあれ、ref的なものが無いから一律除去というのも益の無い話で、出典は記事を見に来た側が内容を検証したり、その内容に関して更に理解を深めるために利用する資料であります。そこを無理解から記事の説明を損なってまで白紙化する行為は説明の放棄であり、記事の破壊ともいえましょう。記事を良くするためには、何が問題でどのように説明を損なっているのか、どうすれば拠り事実を扱いえるのかを執筆側が検討し読者に明示する資料が必要と考えています。--夜飛/ 2011年3月7日 (月) 08:56 (UTC)[返信]
おお、いつの間にか返信していたのですか、ちゃんと報告してほしかったです。あなたの言い方ですと「否定しうる判断材料が自分が探してみたところないので放っておく」ということなのですが、これにはやや問題があります。まずあなただけが探したところで限界がありますし、それにその言い方ですと「自分が探したけどなかったからオッケー」というような主観的な結論に至ってしまいます。また自己主張をここで発表するのは演説行為に値するのでお気をつけください。前提として述べられた「1980年代末-1990年代(特にWindows95発売以前)のパソコンショップを知る者」という前提を理解して欲しかった。というのは、「自分で探せ」というのであってやや投げやりすぎます。それでは出典の意味を成しません。更に百科事典の体裁をとっているwikipediaなのに「自分で探せ」は矛盾が発生します。それと最後に自分の願望を述べるのはやめましょう。相手に自分がなってほしい、理想の姿を押し付ける行為はあまり好ましくありません。それと「小生」という言い方は自分を確立しているのかは分かりませんが、若干違和感のある呼び方で、あまりあなたにいいイメージを抱けません。「私」もしくは「僕」でも結構ですので変わった話し方などは公共の場では控えましょう。現実世界で人ごみの中に「小生は~」などという人がいたら少し違和感が生じますのでやめましょう。それと私の忠告を無視して自分の意見だけで物事を決めないようにしましょう。あなたはここの「ヌシ」ではありません。他の人が来るまで待てないと私はあなたを「ちょっとの時間も待てない神経質な人」と判断しあなたを軽蔑いたします。他の人が来るまで待機しましょう。--Jerkchance 2011年3月8日 (火) 10:39 (UTC)[返信]
前提を書いてなかったので、ちょっと誤解されているようですが、「否定しうる判断材料が自分が探してみたところないので放っておく」は前提として「肯定する材料(ただし出典未満なので記事では扱えない)はあっても」があります。まあ「大意として間違ったことを書いてあるように見えない」訳ですね。また「自分で探せ」問題に関しては、例え記述除去であっても記事に関わろうとするなら至極当然の視点でしょう。解らないものを解らず弄るのはお勧めいたしかねます。なお一人称に関しては「大きなお世話」とだけ言っておきます(ウィキペディアでは記事と執筆者と読者とに謙虚になることを表明しているだけですので)。後半部分は単なるJerkchanceさんの印象論に過ぎないため無視しますのであしからず。--夜飛/ 2011年3月8日 (火) 11:16 (UTC)[返信]
今度はちゃんと報告(らしきもの)はしてくれたのですね、よかったです進歩できて。それと至極当然の視点でしょう。は人にあなたの知っている情報を調べて・知っていて当然というような解釈とも取れますので発言には十分お気をつけください。あなたの文章がだんだん人間に近づいてきたようでよかったです。「待機」の件はちゃんと検討してくれましたか?ノートページでは待つときは何ヶ月も待つ場合がありますのであしからず。文章が斜めに寄り過ぎたので一旦端に戻します。--Jerkchance 2011年3月9日 (水) 14:22 (UTC)[返信]
記事や自身の編集に責任を持たないなら、まず先に「そこに何が書いてあるか」を理解する努力を払う必要はないでしょうが、そんな無責任で放埓な態度はウィキペディア上(いわんや何らかの成果物を共同で制作する場でも)で問題だと申し上げているのです。まあここでJerkchanceさん個人の問題を取り沙汰しても詮無いですが、記事ノートページでは意味のある発言をお願いします。--夜飛/ 2011年3月9日 (水) 22:04 (UTC)[返信]
Jerkchanceさんが「2011年3月6日 (日) 03:11」に行った出典の無い記述の除去(差分)が差し戻されてしまっているようですが、情報源の提示を伴っていないので、あらためて除去した状態に戻すことを支持します。WP:Vを読めばわかるように、あることがらについてそれを肯定する出典も否定する出典も得られない場合は「肯定する記述も否定する記述も書かない」というのがWikipediaの方針です。Wikipediaで出典にできない水準の情報源で内容を肯定するものがあったとしても、それは記述を掲載してよい理由にはなりません(もちろん、「自分が当時の状況を知っているから」も理由にはなりません)。
「大意として間違ったことを書いてあるように見えない」ことを理由に個人が「出典が明示されていないという理由で実際に自分が除去したりはしない」ことは自由ですが、WP:Vで「出典が明示されていない編集は誰でも取り除くことができる」と定められているとおりほかに除去したほうがいいと思った人がいればその人が除去することはできますし、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではない」と定められているとおり、実際に除去されたものを復帰したいと思うならきちんと信頼のおける情報源の提示責任を負う必要があります。
また、「出典の無い記述の除去を実行したら、記事が貧弱になってしまう」ということは、出典の無い記述を載せてもかまわない理由にはなりません(充実した記事内容にするだけの出典が揃っていない段階では記事にごくわずかなことしか書かれていないのが本来あるべき姿であり、出典皆無にもかかわらずあれこれ詳細に書かれている現在の版が異常な状態といえます)。
夜飛さんが実際にこれから出典探しをすると宣言されるなら結果が出るまでしばらくはこのまま待ってもいいと思いますが、そうでないならとりあえず1週間ぐらい様子をみてから(そして、ほかに出典が示せそうな人or探す気のある人が現れなければ)あらためて「2011年3月6日 (日) 03:11」の版に戻すのがよいかと思います。--貿易風 2011年3月10日 (木) 04:50 (UTC)[返信]
少なくとも、ゲームの内容に言及している箇所が、具体的なゲーム名を一意で挙げることで検証可能性を満たさないとは思えませんけどねえ。その点でJerkchanceさんの編集はref的なものがないことを記述除去していい理由と短絡したかのような(説明的ですらない)記事の白紙化だったと問題視している訳です。まあ実際、ウィキペディアは語義だけを書けばいい辞書ではありませんし、サブカルチャー分野などは学術的な研究のような「確かな情報源」が得がたい訳ですから、検証可能性は兎も角WP:NPOVWP:NOR上で余りな逸脱が無ければ看過していたんですが、まあ正直なところとして思い付きに等しい拙速な行動に振り回されるのも面倒くさいし。とりあえずクソゲー同様に出典未満なネタまで混ぜてみる?--夜飛/ 2011年3月10日 (木) 09:15 (UTC)[返信]
その書き方ですと、夜飛さんのほうから(少なくとも本記事で出典として採用できる程度に)信頼できる情報源を提示していただくことはあまり期待できないと考えてよいでしょうか。情報源の信頼性について学術的な分野の記事ほど高いハードルが求められるわけではないということを考慮してもなお本記事で出典として扱うことができないような水準の情報源については、それを「なんらかの記述を掲載できる根拠(WP:Vを満たす根拠)」にすることはできません。
本題ですが、個別のゲーム作品の記事において(検証可能性を満たしていると考えられる形で)記述されている内容と同等な記述(あるいはそれを要約したもの)を本記事にも書いて、その記事への内部リンクを設置しておくということによって、「(<ref>タグを使った場合のような)明示的な出典情報がなかったとしても、『検証可能性を満たした記述を含む記事への内部リンクが存在する』という形で間接的にこの記事でもその部分は検証可能性が満たされているとみなす」ということであれば、基本的にはぼくは反対しません。なので、夜飛さんが具体的に「記事中のこの箇所は明示的な出典情報が無くてもWP:Vを満たしているといえるんじゃないか」と指摘されるのであれば、検討する余地はあると思います。
が、現実問題としてはたぶんそういった形で残せそうな箇所のほうが少ないので(そこだけ単独で残しても説明にならないということもあるかもしれないし)、とりあえずは以前のコメントで指摘した版に戻した上で「こういった部分は残せるんじゃないか」と考えられる部分があればそれを復帰していく(そしてそれに異論がある場合はあらためて個別にノートで議論していく)ほうがいいかなとぼくは思います。実際、例えばこのノートで引用されている部分なんかも「個別に出典を明記しなくてもWP:VWP:NOR上の問題はないと判断可能」なケースではないですし。
WP:Vを厳密に適用すれば本記事にもなにもかけない(本当に白紙にするしかない)ことになりますが、Jerkchanceさんが編集した版を見る限り、定義文など最低限の部分は除去することなく残されており、「白紙化」されているわけではないです。本記事の主題についての2次情報源が1つも確保できていない状況下で、個別のゲームソフトの具体名を出すという形での記述の組み合わせだけで解説を成立させるのは相当困難だと思うので、最低でもなにかしらの有意な2次情報源が確保できるまでの間は「(実質的には)定義文プラスアルファ」程度のミニマムな状態にしておくのが無難だと思います(Wikipediaは「語義だけを書けばいい辞書」ではないですが、「辞書的内容を上回る解説をするためならばWP:Vを無視して加筆してもいい」わけではありませんので)。--貿易風 2011年3月13日 (日) 09:13 (UTC)[返信]
(インデント戻し)小生としては「自主発表された情報」も全く出典足りえず、その意味で貿易風さんがクソゲーの項で冒頭定義を槍玉に挙げた際に、出典として示されたELを平気で採用してしまったことに強い失望感を憶えて手を引いたのですが、まあクソゲーの項でも軽く資料を取り寄せたりしたくらいで平気で1週間を軽く越える時間が掛かる(しかも取り寄せた資料はほとんど役に立たなかった)こともあり、この手の「中途半端に古いために資料が散逸してしまっている事象」は「温く分別ある視点で大筋間違っていなければ看過する」ほかないと強く感じている次第です。そこを性急に記述を人質に出典を求めれば、執筆側の疲弊しか招かないでしょう(今日、図書館に頭痛を圧して資料検索に出掛けて本気でそう思っています・目的の資料は得られませんでしたが)。
なお利用者:Jerkchance会話 / 投稿記録 / 記録さんの記述除去した版は、語義しかなく、後に連なる各々の作品の一覧記事でしかありませんし、その一覧に至る説明が無ければ、そもそもなんでそれら作品が列挙されているかも意味不明化します。して、その理由は「自己視点・不適切な記述・無関係・問題のある記述・捏造疑惑・誇大表現・根拠の不鮮明な記述の削除」と要約欄に書かれていますが、何を根拠にしたかといえば自身が知らないこと…もう呆れ果てんばかりです。そんな態度で説明をどうこうしようという発想自体ありえないと考えています。
なお「(<ref>タグを使った場合のような)明示的な出典情報がなかったとしても、『検証可能性を満たした記述を含む記事への内部リンクが存在する』という形で間接的にこの記事でもその部分は検証可能性が満たされているとみなす」ということであれば、少なくとも洋ゲー#洋ゲーの一例にある各々のゲーム作品への言及は残るでしょう。
なおこの問題に際しては、正直なところとして拙速というか性急に出典を求めれば益が無いし、それを過度に要求する態度(共同作業ですらない一方的な要求)には辟易しているため、実は小生の視点(出典は読者に利するために存在するべき)でも軽く検索した結果として幾つか出典として扱いうる水準を満たすELや文献が見つかっているのですが、記事を存続させるためだけに記事白紙化を主張する側の欲求を満たしたくないと思っている手前、現状で記事を見捨てて後年気が向いたら何某か書くかもしれないな…と思っています。--夜飛/ 2011年3月13日 (日) 11:26 (UTC)[返信]
クソゲーの記事で出典として示されている情報源の信頼性についての嫌疑はここで扱う話題ではないので必要であればノート:クソゲーであらためて問題提起してください(ちなみに「自主公開された情報源」が原則として出典として採用できないことはWP:VWP:RSで言及されています)。
Jerkchanceさんが除去を行った理由は(要約欄・ノートでの発言を見る限り)WP:VWP:NORを根拠としたものであり、「自分が知らないから」は無関係かと思います。Wikipediaでは、出典を明記することによって「そのことをよく知らない人であっても、示されている情報源を参照することによってその記述の妥当性を確認できる」ようにすることが求められているのであり、「(出典が示されていないから)よく知ってる人でないとその妥当性を判断できない」のであればその時点でWikipediaに掲載できる水準をクリアしていないことになります。Jerkchanceさんのことを無知であると批判している夜飛さん自身が「本記事の記述に妥当性があると判断できるだけの知識」を備えているのどうかかも第三者にとってはわからないわけで、それを備えているということを客観的に納得してもらうためには「わたしはこういうふうな情報源を提示することができる」ということを示す必要があるので、結局は「信頼できる情報源を提示できるか?」という検証可能性の問題に帰着するわけです。
「内部リンクで間接的にWP:Vを満たす」という考え方については、いまのところJerkchanceさんからこの件についてのコメントがないのでなんともいえませんが、とりあえずはあいだをとって
に編集して、その上であらためて納得がいかない点や復帰・除去・修正すべきと思う点があればお互いそれぞれノートで議論してはいかがでしょうか(ぼくもなにか述べるかもしれません)。「…飛び散る様子が花火のようで美しい」というくだりのように、「内部リンクで間接的にWP:Vを満たす」という考え方を考慮してもなお削ったほうがよさそうな部分もありますし(細かくみていくとほかにもありそうです)。
なお、夜飛さんが確保しているとおっしゃる出典として扱いうる情報源が具体的に提示され、それらによってそのほかの部分(「プラットフォームによる受容の違い」の節など)の大部分について検証可能性が満たせそうだということであれば、話はかわってくると思います。とりあえず、具体的にどのような情報源を確保しており、それによって記事のうちどういった記述に対して検証可能性を満たせそうだと考えられるのか(あるいはそもそも情報源を提示する気があるのか)を教えていただけますか?--貿易風 2011年3月15日 (火) 08:03 (UTC)[返信]
正直なところとして、上に述べたとおり現状は記事を質に如何こうしようというのも愉快な話じゃない(ルールや手段が目的化している)し、また検証可能性を満たさない記事に必要なのは検証可能性を求めることであって記事の主文を破壊して意味喪失させることではないし、更に検証可能性はNPOVかNORと連動して機能するために「そこに何が書いてあるのか」を判らないことには話にならないのにWP:Vだけが一人歩きしていることもあり、ほとんどスルーしたいくらいです。なお仄めかした資料については全く明かさないのも親切ではなさそうなので「WIREDVISIONやallabout辺りに興味深い記事がある」ことや「CEDEC 2010で興味深い講演があったらしい」辺りを匂わせておきましょう。ま、それ以上の「協力」はしたくありません。--夜飛/ 2011年3月15日 (火) 09:15 (UTC)[返信]
お久しぶりです。ところでYatobiさんがこの記事に対して「協力する気はない」とおっしゃったことですが、『協力はしないのに差し戻しはする』という立場は若干妨害行為に当たる所為もあるので、編集合戦にならないよう議論・編集には積極的に参加してください。それと、出典を出す場合はただ曖昧な口調だけではなく、当確ページへのリンクを張りましょう。例えばHalo 2の記事はインターネット上でのネタになっているシーンなどもありますがそのことは一切掲載されていない・信頼できる情報源を明示した上での掲載となっています。貿易風さんが述べたような「…飛び散る様子が花火のようで美しい」のような出典が明記されていない情報は独自研究に相当します。記述の根拠を示したいのならページアドレスまでしっかりと明記してください。それとあなたは本当に情報の出典を知っているのか疑問に感じてきました。根拠を示す場合はガイドラインと同じく出典を明記するようにしてください。口上だけの出典は私でも出来ますよ。あなたの言い方を真似すると「この記事は信頼できる良い記事だ、という発言はaaaa.comに否定的な記述が示されているので大嘘だ」と言うような感じになります。WP:Vには記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。と書かれているのですが、読みましたか?ガイドラインは完璧に守る必要はない、という言い訳は駄目ですよ。出典を明記しないでここで出典の明示を避ける発言ばかりを書き込むのはやめましょう。とりあえず必要な部分だけ修正しておきます。出典が用意できたら再び編集しなおしてください。--Jerkchance 2011年3月21日 (月) 14:25 (UTC)[返信]
議論に先んじて、あるいは議論と平行して記事に手を出すほうがどうかと思いますがね。まあ「記事を存続させるためだけに出典を探してくる」のは「主張のために論拠を探してくる」ようなものだと思っていて、客観的中立性を持って説明する上では馬鹿げた行為だと考えておりますし、また「出典が無いから除去だ」と騒ぎ立てるばかりで、自身では何らかの資料を捜したり得たりして妥当な内容にしようとかいう視点に欠く態度は「相手にすれば消耗するだけで(記事にも執筆者にも読者にも)何のメリットも無い」とみておりますので、お相手いたしかねます。まあJerkchanceさんの最初の記述除去はなんら妥当性が示されない稚拙な記事白紙化だと考えられたため「現状復帰しただけ」ですので。なお、何か勘違いされているようですが、記事に関わることは権利や義務じゃないんですよ。短絡的で拙速な行動はちゃっちゃと見限って、ほかの事に関わったほうが生産的というものです。もし本当に記事をよくしたいと考えられているのであれば、ぜひ小生提示のヒントで何か資料が拾えないかや、拾った資料で何が書けるのかに尽力して欲しいものですな。--夜飛/ 2011年3月21日 (月) 15:10 (UTC)[返信]