ノート:殖田謙吉

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殖田謙吉については立項を考えましたが、資料があまり見つからなかったため断念していました。1年以上前の事で、そのとき何の資料を見たのか現在分かりかねます。検索をかけたところこちらの13頁に「殖田俊吉の叔父が殖田謙吉」とあります。立項された方はIPユーザーで、またIPアドレスが変化するようですのでこちらに記しておきます。以下にお願いがあります。

参考文献情報を明確に。

挙げておられる「日本海軍士官総覧」は戦前の「義済会員名簿」を柏書房が復刻したものかと思われます。この資料には旧姓も載っておりますので殖田謙吉の旧姓が是恒であるとの出典になるはずです。「海軍兵学校沿革」も出版年からおそらく原書房から復刻されたものかと思われます。こちらでは18期に是恒謙吉が機関学校から転入したことが確認できます。ただ改姓の件が記載されておらず、卒業者の殖田謙吉と同一人物であるか不明です。 書き方としては

  • 明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』原書房、1968年

のような書き方で宜しいかと思われます。「公文備考」、「極秘明治三十七八年海戦史」では資料を特定できないため詳細を記していただきたい。公文備考は膨大であり検証不能です。極秘海戦史は防衛研究所で直接確認されたということでしょうか?

もう二点、脚注をもって出典箇所が明示されたものを除去する必要はございません。全ての出典を自分だけで確認する必要はなく、ここは協同作業の場になりますので。最後に要出典となっている箇所に脚注形式で参照文献とページ数その他特定できる方法で出典を明記してください。検証不能とみなされるとせっかくの記述が除去されることになってしまい、それはとても残念なことですので。よろしくお願いします。--Stingfield会話2012年8月22日 (水) 14:02 (UTC)[返信]

fieldさん有難うございます。殖田は我が郷土の英雄ですが、軍神がいますので目立ちません。もっと日を当てたいです。 出典、出典と云われると嫌になります、ギブ&テイクの世界ですから…ギブのあったfield様は私からどんどんテイクして下さいませ。 近いうちに、雲栖寺を訪問したく思います…結果は報告します。

極秘海戦史はアジ歴で、インターネット閲覧できます。「極秘 明治三十七八年海戦史」で検索、膨大な量です。(追伸極秘の後ろに スペースを挿入すること)公文備考、戦時日誌も同様です。防衛研究所は何の役にも立ちません。

明治19年10月、旧機関学校に合格入校したのは、是恒謙吉を含む31名。大分県人、謙吉という名は是恒のみです。 あんまり難しく考えないほうがよいのでは、兵学校に転校になった時は既に「殖田姓」だから、旧姓は無しです。 言い換えると、機関学校時代に是恒から殖田へ改姓したんでしょうね。

日露戦役で戦死した海軍軍人を世に出してやりたいです。例えば小倉寛一郎、品川一郎、森下基一、山中幹等など。--219.167.122.36 2012年8月26日 (日) 10:44 (UTC)[返信]

まぁ、殖田=是恒についてはまず間違いないところでしょう。しかしWikipediaにはいろいろと面倒な約束事があり、独自研究の排除、検証可能な資料を示すことは大前提になっております。最近はその傾向が強く、特に旧軍関係は脚注による出典明記を心がけておられる方が多いのです。ミッドウェー島砲撃宇品丸など最近の記事をご覧ください。戸惑われたかもしれませんが、検証不能とみなされた場合、該当部分を削除されても仕方がないのがWikipediaです。私も越後守様には最初に立項したさいにテンプレを張っていただき、そこからいろいろ調べ左記のように心がけております。現状要出典箇所が残っており、私も探してみます。多分見つかるかと。ともあれ、殖田謙吉の記事が立項されたのは喜ばしく、個人的な宿題が一つ減ってほっとしております。小倉、品川らも心がけておきます。--Stingfield会話2012年8月27日 (月) 14:15 (UTC)[返信]

fieldさんへお願い等 (1)「日も行く末ぞ久しき」で謙吉と俊吉が叔父甥の関係である事が判明したので、この旨をウィキに記載して頂けませんか? 私が記載しても良いが、発見者はfieldさんですので遠慮しています(笑い) (2)是恒姓は、養子に出されたとかではなく、多分母方の姓でしょう。現在も宇佐には是恒姓が多々あります。海兵32期の是恒某も駅館村出身です。先輩の謙吉を慕って海兵に入ったんでしょうかね。 (3)略歴の下に人物評を設けませんか?とりあえず今のところは…「有為の参謀である」くらいですが。判官ひいきになりますが、謙吉は相当なる人物と私は見ています。理由は、閉塞戦が失敗した苦境の中、変人天才参謀秋山の下に送り込んだんですから。当時、軍令部は連合艦隊参謀連の考え出す作戦に対して、非常に危惧しつつあった。それで、目付役で殖田を送り込んだのだと考えます。 (4)別件ですが溝部洋六(海兵29期 首席)は私がウィキに寄稿しました。ご覧になられているようですが、間違いなどがありましたら、ご指摘頂ければ幸甚です。--218.47.69.113 2012年8月28日 (火) 11:17 (UTC)[返信]

人物評については設けて構わないかと思います。殖田俊吉との関係もあまり遠慮なさらず編集なさってください。提案なのですが、アカウントをお取りになりませんか?ウォッチリストは便利ですし、ご一考くださればありがたいです。殖田についてですが、相当の人物であったのは間違いありません。戦の最中の連合艦隊参謀は選び抜かれた方ですので。溝部にしても品川らにしてもそうですが、早くに亡くなった方に海軍を背負って立つような方がいたのではないかとも思えますね。溝部の記事は人物像の「出版している」以後の「-思われる」は不要かと思われます。無論出典が明記でき、誰がそう思ったかを示せれば構いませんが。溝部は恐らく佐藤鉄太郎に似た経歴を踏む方だったような気もします。--Stingfield会話2012年8月28日 (火) 12:22 (UTC)[返信]

fieldさんと話していて大変勉強になります。(1)溝部は恐らく佐藤に似た経歴…私も全く同感です。海大の学生と教官であった時期に、佐藤から薫陶を受けたのでしょう。「海へ」(溝部洋六著)の序文を佐藤が記しています。fieldさんがどうして、佐藤に似た経歴を踏むと思ったのか教えてくれませんか?(2)アカウントは、ちょっと考えさせて下さい。江華島事件に大分手をいれましたが、相当いじめられています。尖閣、竹島と微妙な時期なので正確に同事件を記す必要があります。出典、脚注もとんでもないものばかりで呆れています(笑)(3)日露開戦時の人事は、なっていません。参謀の有馬、松村が閉塞戦に参加とは、広瀬は一水雷長ですから判りますが。連合艦隊の参謀がなんたることか、戦死や戦傷したらどうするのか、こんな猪武者を良く参謀にしたと呆れています。また第一戦隊の砲術の指揮をとるべき三笠砲術長が開戦直後に加藤寛治に交替とは、相当折り合いが悪かったのでしょうか、でも我がままです。19期の飯田は、秋山の使い走りですから、軍令部(財部、山下)も危ういと見て秋山に堂々と意見の言える殖田、小倉を送り込んだと思います。(4)海兵29期は首席、次席、三席が戦死や早死にです、3人のうち一人でも長命であれば、海軍も相当変わっていたかも。高橋三吉のような人物が残って残念無念です。米内はまだ発言力が弱かった。(5)最後に留学5人組の林三子雄も経歴等を充実して欲しい、したいです、林の無念をはらしてやりたいです。--218.47.68.207 2012年8月29日 (水) 10:56 (UTC)[返信]

一応このノートは殖田の編集に関する事柄を扱いますので、あまり他の事柄に話が及ぶのは避けた方が宜しいかと思われます。その上で(1)ですが、海軍軍人が著作を発表するには海軍省の許可が必要でした。山本権兵衛は意識的に佐藤に行わせたのです。もう一人太田三次郎にも目をかけていました。この方はいずれ記事にする予定です。溝部もそうですが、30期の下村忠助も似たような活動をしております。二人はともに海大首席でした。経歴的に下村は軍政方面を予定されていたと感じています。(2)については私は歴史学の専門家ではないのでご勘弁ください。(3)ですが、交代されられた砲術長は会津藩士の息子で、朝日の砲術長として戦っております。ここら辺の経緯は百武源吾の証言があり(『異色の提督百武源吾』)、艦長は成績優秀者を集めようとしていました。(4)、(5)については長くなりますのでこの辺で。林については立項が精一杯というところでした。--Stingfield会話2012年8月29日 (水) 11:36 (UTC)[返信]

立項の直接の契機は、謙吉の生年月日が判明したためです。没年は脚注をつけるまでもなく明確です。生年に何故「要出典」がつかないのか未だに不明。軍令部参謀に何時なったのかは不明、ただし開戦直後(2月)に軍令部参謀で殖田の名前が出てきますので、とりあえず2月にしました。舞鎮参謀も同じで、いつ発令になったのか不明。

(1)ところで、8/10の負傷から何故1ヶ月も経た9/4に死亡したのでしょうか?現在の感覚なら点滴もとれた手術後の回復時期だと思うのですが…。小倉は順調に回復して高砂の航海長に復帰。殖田はもう海軍士官として現役復帰できず、予備役編入等の話があり、悲観のあまりと…縁起でもない事を想像します。 (2)殖田、小倉らが被弾した時、東郷、島村、秋山はどこにいたんでしょうか? 時間的にはまだ旅順艦隊を左舷前方に見る位置に三笠はいます。東郷らも前艦橋だとは思うのですが、確証(文献)がありません。(1)、(2)について、誰か判っていましたら教えて下さいませ。--222.150.153.31 2012年9月1日 (土) 11:44 (UTC)[返信]