ノート:楠木正成

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「楠木正成」と見出しにあるが、「楠正成」と記憶している。(Yahoo検索でも後者が圧倒的に多い。どちらが正しいか、調査下さい。)

私はあまり詳しくはありませんがリンク先に挙げられている[1]によると正成の当時は「楠木」で、後に「楠」を名乗るものが現れたようです。ちなみにYahoo!の検索では(2005年2月5日 (土) 13:38 (UTC)現在)前者が12928件で後者は5057件です。(Googleでは約 18,200:約6830)こいつぅ 2005年2月5日 (土) 13:39 (UTC)[返信]

楠木[編集]

群馬県館林市楠町には楠木正成の首塚を祀った楠木神社がある。 1336年湊川の戦いで死を遂げた正成の首を塩漬けにして、密かに持ち出した田部井氏ら正成の家臣5人(元々は7人だったが途中で2人死亡)が、南朝方の北畠顕家に保護を求めるため東北に向かう途中にこの地に立ち寄った。大きな楠の木の下で休息を取り出発しようとしたところ、首を入れた籠が突然重くなりどうしても動かなくなったため、 正成公の御遺志としてその木の下に首を埋め、社を建ててこの地に土着し祀ったのが由来であるそう。 ここまでしか解りません、詳しく調べて下さい。

wikipediaは調査依頼の場ではないので調査を依頼しても意味がありません。敢えてアドバイスをするならば、『館林市史』や『群馬県史』をご自身で調べるのが手っ取り早いでしょう。南朝関連の史跡は、戦前に顕彰の為に調査研究が進んでいるところが多いので、戦前の市史、県史の方が詳しく記載してあるかも知れません。--怪蘇 2007年9月9日 (日) 12:08 (UTC)[返信]

楠木正成夫人久子について[編集]

常々正成夫人の名が久子というのを疑問に思っていました。歴史学者が書いた書物には「久子」とするものが見あたらず、何か小説が出典かと思い調べましたが、明治・大正の農制史家織田完之の著書『楠公夫人伝』が初出のようです。『楠公夫人伝』については正成夫人を顕彰する「楠公夫人遺蹟保存会」という団体の活動の一環として出版されたようです。私の住んでいる地域の県立図書館には在庫がないため内容を確認できません。しかし、現在信頼が置ける日本史関連書籍で、正成夫人の名を「久子」と断言するものが見られないことから、削除いたしました。

他に史料を見つけた方は自由に編集して下さい。--怪蘇 2007年9月9日 (日) 12:08 (UTC)[返信]