ノート:新検見川駅

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駅名の由来[編集]

地元には別説。 第一、新検見川は花園・花園町、南花園の駅で、所在地名からは「検見川駅」にする必然性はありません。 1951年(s26.)の駅開設に際して、地元に鉄道債券の割当てがあり、これを半農半漁の検見川地区は神社仏閣の地域寄付同様に各戸に割り振って消化したのに、 新興県営戸建て住宅団地でサラリーマン主体の花園町住民は引き受けなかったことで、鉄道債券分担の検見川住民の顔を立てて「新検見川」としたという説明が通っています。  しかし、実は山陰線京都口の嵐山近くに既に「花園駅」(1898/1/1開業)が存在して、同名の「花園」にはできませんでした。 近隣に「下総中山駅」や都下「武蔵小金井」「・・・小杉、・・・新城」「上総興津、・・・一宮」等の存在を考えれば「下総花園」も候補になり得たのを、 鉄道利用債応募か、リップサービスかは確定できませんが、隣接、検見川地域対応として、京成の検見川と区別して「『新』検見川」となった模様。

 検見川地区の神社を辿りますと、それぞれ、その建立に寄付した住民の芳名リスト碑が建てられていて、いくつも重複する同じ名前を見ることができます。 検見川でのこの負担割当てシステムが新検見川駅新設鉄道債券地元割当てに際して適用されたことは疑いないでしょう。 新検見川駅新設よりかなり後の検見川八坂神社建て替え寄付にもこの賦課システムは働いていて裏参道脇上の超大型記念碑に寄付者一覧表が刻まれています。 明治時代に建立の日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る社が同じく検見川神社境内最奥にありますが、ここにも全町からの寄付者名簿碑が建てられていて、 何の碑も建ってない新検見川駅は、名前ぐらいは付けないわけには行かなかったのかもしれません。

太古を辿るとこのあたりは検見川と畑と稲毛で、新興住宅地の花園とか浪速、朝日ヶ丘、瑞穂というのは検見川でして、 現花園中学・花園小学校には「千葉工業学校『検見川校舎』=現県立千葉工業高校の前身」があり、浪花町には「東電検見川変電所」が現在もあるのですが、 新検見川駅のできる時代s26.にはもうとうに細かに分かれていました。
--Tetsuo00会話2014年3月23日 (日) 12:44 (UTC)[返信]

ノートへの情報提供ありがとうございます。出典の明記をお願い致します。--tds会話2018年1月29日 (月) 22:25 (UTC)[返信]