ノート:新城藩

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新城城ではなく、新城陣屋です。

新城は、城ではなく、地名です。

藩庁というのは、明治以降の話しで、明治維新期に、新城藩は存在しません。(2006年2月6日 (月) 13:12 222.1.223.152さん)

新城城は陣屋ではありますが、城でもあるそうです。1576年に城として築かれた際、「新城」という城が既にあったため、区別するために「新城城」としたということです。後に新城藩が菅沼家によって治められて交代寄合の領地となった時、城を陣屋として使用したとのことです。

それと…「藩庁が明治以降の話」というのは、「用語が使われ始めた時」のことを言っているのでしょうか。「藩庁が存在した時」だとすると、明治4年に廃藩置県が行われた以降に「藩」は存在しないわけですから矛盾しますし。それを言い出すと、「~藩」という言い方も江戸時代当時はなされていなかったそうですから、Wikipediaの藩の記事全部が成り立たなくなってしまうのですが…。ですから、「藩庁」が当時使われていなかったとしても、記述をわかりやすくするために、藩庁と記しておいた方が良いかと思います。--松茸 2006年2月10日 (金) 18:25 (UTC)[返信]

越前の葛野藩も江戸時代末期に存在しないにもかかわらず、「葛野藩」の項名で説明しています。新城には、江戸時代前期には大名家も配されたことから、「新城藩」の項名で十分では?納得できなければ、項名改名を提案するのもやぶさかではありません。

新城藩の実在性[編集]

IP利用者:14.132.58.243さんより、明暦4年(1658年)の『武鑑』に藩主・水野元綱の名前が掲載されてないから、元綱も新城藩も実在性が疑問との書き込みがありましたが、いずれも『寛政重修諸家譜』や『藩翰譜』に掲載があり、一般に頒布されている日本史辞典の「近世大名配置表」にも水野分長・元綱父子の系統は新城藩主および安中藩主として継続した記述がありますから、水野氏の新城藩はその実在性を今さら疑う余地はないと存じます(よって該当記述部分は削除とします)。しかし、その実在性疑うような説を唱える学者・研究者が実際にあるならば、その典拠となる論文・著述および筆者を明記して貰えばそのような記述も可能です。なお、詳しい議論はノート:三河国にあります。--故城一片之月会話2012年5月22日 (火) 15:45 (UTC)[返信]