ノート:インド仏教復興運動

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ノート:新仏教運動から転送)

「インド仏教復興運動」への改名[編集]

理由は次の通りです。

  • 1.「インド新仏教」という呼称は差別的であると当事者が述べている。[1]
  • 2.「新仏教運動」で検索すると日本の運動に関する学術論文が出てくることもあり、利便性・学術性の観点からも適切な題名か疑問がある。[2]
  • 3.アカデミックやマスコミにおいても「インド仏教復興運動」という用語が使われている。学術研究での使用例[3]

以上、差別的であるとの指摘がない上に学術研究でも使用されている「インド仏教復興運動」の名称へと改名することを提案します。--発祥の地会話2020年1月24日 (金) 09:17 (UTC)[返信]

一次資料の利用について[編集]

wikipediaの「wikipedia:検証可能性」においては「自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源でも、それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。」と記されています。インド仏教復興運動は国外の運動であるため、日本語の出典については当事者の一次資料に頼ることもありますが、一次資料であることのみを根拠に削除は出来ないと思われます。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 04:11 (UTC)[返信]

「南天竺一乗宗(インド仏教)僧侶」を自称する日野智貴なる人物を出典とすることについて[編集]

この人物については信頼できる第三者による出典が一切ありません。本人の肩書に「南天竺一乗宗(インド仏教)僧侶」とあるだけでありインドでの活動実績もまったく検証されていません。 肩書は「日台國體護持兄弟会副会長、文殊会理事。一般社団法人「いのちを守る親の会」会員。宗教修行を行いつつ、歴史研究や地球環境問題・生命倫理問題解決への活動を模索中。」とあり、インドのいかなる団体に所属しているかも明かされていない「ナグプール市インドラ町のインドラ寺」で「インド仏教の僧侶として得度させていただきました。」とあるのみで、現在、インドでどのような活動をしているのかも不明です。 この得度したというのも自己申告であり、ウィキペディアのガイドラインにおける誰もその仕事を評価していない未知の個人に該当します。このような人物の自己公表物は「二次資料として使えず、一次資料としては細心の注意をしているときだけ使えしかも主題が論争中の場合には単独では使えない」ため出典として用いるのはふさわしくなく、当該記述は削除すべきです。--Ryo 625会話2020年2月3日 (月) 08:09 (UTC)[返信]

(追記)
この日野智貴なる人物は「生長の家」の現役信者であるとも自称しており(「私は、生長の家の現役の青年会の会員で、組織内での活動もしています。[4])、ますますこの人物をもってインド仏教の僧侶としてよいのか疑問だと考えます。--Ryo 625会話2020年2月3日 (月) 08:40 (UTC)[返信]
提案 以上のことをもちまして、日野智貴なる人物を出典とする記述をすべて削除することを提案いたします。--Ryo 625会話2020年2月3日 (月) 15:16 (UTC)[返信]

まず、彼がインド仏教僧侶であることは

  • 南天会会報「龍族」第17号に明記されている(ガイドラインには「それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。」とあり、インド仏教団体である南天会の会報の内容は出典となります。)
  • ネット上に掲載されている情報だけでも、彼自身の「自称」だけではなく次のように彼をインド仏教僧侶と(佐々井秀嶺と一緒にいる写真付きで)言及している投稿がある

からも、明白です。(南天会会報はネット上で公表されていませんが、会報の内容も出典になるはずです。)写真は一次資料としては客観的な証拠と言えるでしょう。

そのため「誰もその仕事を評価していない未知の個人」とは言えず、インド仏教内部の人間であることは佐々井秀嶺と一緒にインドの寺院で僧侶姿で活動している写真からも明白ですから、インド仏教に関する一次資料として用いることができるのは明白であると考えます。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 16:07 (UTC)[返信]

コメント まずFacebookなどに載せられた写真を以って関係があると主張するのは何か意味があるのでしょうか?麻原彰晃がダライラマ14世と一緒に写真を撮っていることに何も意味がないのと同様であり、またそこから意味を見出すのは専門家が時間をかけて行う仕事です。
なんらかの会報などに「インド仏教僧侶と書かれている」というのも基本的に信用性に欠けるものです。なぜなら過去にマハーカルナーという法名の人物が、「上座部仏教において高名な僧侶の元で比丘出家し、彼から日本への布教を命じられた」と吹聴し、雑誌などにもそれを鵜呑みにした記述がプロフィールに書かれていたにも関わらず、そのような事実は一切なかったことが判明したという前例があるからです。このように、時間と検証に耐えた信頼性のある情報源を探すのを怠って、noteやfacebookなどのメディアに頼るのは拙速だと考えられます。--Ryo 625会話2020年2月3日 (月) 23:18 (UTC)[返信]

南天会はインド仏教団体なので、インド仏教については出典になりますよ??--2001:CE8:181:E779:6843:430A:1102:9505

南天会はインド仏教団体ですから、「なんらかの会報」ではなくガイドラインにおける「情報源自身に関する記事」に該当し、出典として使えることは明白です。その他、私にはRyoさんの言うことが詭弁にしか聞こえませんが、中々納得しないでしょうから議論はここで続けるものとしつつ、貴方が本文中に「日野智貴」の名前を書き込むことは宣伝に該当する恐れもあるのでとりあえずその名前については伏せることとします。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 23:27 (UTC)[返信]
コメント 南天会は佐々井秀嶺の後援会だとあります。(南天会(なんてんかい)は、インド仏教復興運動の最前線に立つ、佐々井秀嶺上人公認の後援会です。 [5]
そもそも名前を記すことが宣伝行為になるような人物の意見を「インド仏教僧侶の中には…」という記述の出典にすることは、理に合わないことです。そのような人物の主張をWikipediaの記述に用いるべきではありません。--Ryo 625会話2020年2月3日 (月) 23:32 (UTC)[返信]
佐々井秀嶺の後援会であることは、インド仏教復興運動の当事者ですから、一次資料としての出典になります。一方、後援会のメンバーの名前を一々記すことはオカシイでしょう。そういうことを指摘しているだけです。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 23:36 (UTC)[返信]

これは誰でも判ることですが、部外者の「雑誌」と当事者の「会報」とは、全く異なります。なので、Ryoさんが過去に「雑誌などにもそれを鵜呑みにした記述がプロフィールに書かれていた」例があるからと言って、今回の件には全く関係ありません。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 23:39 (UTC)[返信]

コメント マハーカルナー氏の団体のHPにそのような記述がなされていたのですが(笑)確認のためにお聞きしますが、発祥の地さんは日野智貴氏ご本人ですか?--Ryo 625会話2020年2月3日 (月) 23:43 (UTC)[返信]
言っている意味が不明です。マハーカルナー氏のデマを信じたのは部外者の「雑誌」ですよね?日野智貴氏はインド仏教復興運動の後援団体の「会報」に明記です。それが全く異なることは明白ですが、わざと的を射ない回答をしているのでしょうか?私は日野智貴氏本人ではありませんし、南天会がインド仏教復興運動後援団体であることは佐々井秀嶺氏の著書にも書いてあります。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 23:50 (UTC)[返信]
コメント 「全く異なることは明白」ではありません。名称は幾度か変わりましたが、マハーカルナー氏本人および支援者の団体のHPにそのように書かれていたということです。
私は日野智貴氏本人ではありません
ありがとうございます。
南天会がインド仏教復興運動後援団体であることは佐々井秀嶺氏の著書にも書いてあります。
そこを否定はしていません。(南天会(なんてんかい)は、インド仏教復興運動の最前線に立つ、佐々井秀嶺上人公認の後援会です。 [6] )--Ryo 625会話2020年2月4日 (火) 00:00 (UTC)[返信]
名前を記すことが宣伝行為になるような人物の意見を出典にするべきではないという点に関してはどうなるのでしょうか。日野氏は生長の家の現役信者とも自称されていますが、インドでどのような活動をされているのでしょうか?それは検証可能でしょうか?--Ryo 625会話2020年2月4日 (火) 00:00 (UTC)[返信]
そこを否定していないのであるならば、「マハーカルナー氏本人および支援者の団体のHP」の場合とは異なりますよね?今回のは「日野智貴氏本人および支援者の団体のHP」ではなく「インド仏教復興運動支援者の団体のHP」ですから。
後援者の名前を一々記すことはオカシイと言っているのです。「○○の一人はこう言っている」と「○○の一人である(本名)はこう言っている」では、前者の方が百科事典的に相応しいでしょう。(後者はそれが著名人ないし特筆性のある場合に限るべきです。)--発祥の地会話2020年2月4日 (火) 00:05 (UTC)[返信]
「日野智貴」が生長の家の現役信者であるとする貴方の挙げた出典は二年近く前の記事ですが、時間がたっていることと、本人が「言っているだけ」なので今彼が生長の家の「現役」信徒であることを示すものは皆無です。一方、彼が「インド仏教復興運動」の僧侶であることはインド仏教復興運動後援団体の会報(会報と言っても部外者も読めます。現に私も読んでいます。佐々井秀嶺の著書にもある団体ですから。)に明記されています。彼が生長の家の信者であること以上に確実な情報です。(生長の家の会報に彼の名前があったとしたらご教示ください。)--発祥の地会話2020年2月4日 (火) 00:09 (UTC)[返信]
コメント 日野氏は後援者の一人にすぎないのですか?著名人でなくともインドで立派な活動をされている僧侶の方の名前を出すのをどうして避けられるのですか?繰り返しますが、自身を新宗教の現役信者と自称する僧侶の活動実績には疑問符がつきます。--Ryo 625会話2020年2月4日 (火) 00:20 (UTC)[返信]
彼がインドで「立派な活動」をしている、という出典はどこにもありません。私が出した出典は、あくまで彼がインドで僧侶として活動し、そのことがインド仏教復興運動の後援団体からも認知されているというだけです。ですから、インド仏教復興運動の「当事者」であることは確実ですが、どういう地位かは不明です。しかし、「当事者」の主張である以上、それをwikipediaに記すのは問題ないと考えます。--発祥の地会話2020年2月4日 (火) 00:33 (UTC)[返信]

「日野智貴」の四文字を本文に記すためだけに執拗に「取り消し」を行う意図もそもそも不明です。私は編集合戦回避のため、彼の名前以外については貴方の編集をそのままにしています。貴方こそ日野智貴氏本人か関係者、或いは逆に彼に恨みのある誰かではないか、と思ってしまいます。--発祥の地会話2020年2月3日 (月) 23:57 (UTC)[返信]

コメント 私の意図は「日野智貴」の四文字を本文に記すことではなく、このような「論者の名前を明記すること」が宣伝行為とされるような人物を出典としてWikipediaの執筆を行うべきではない。該当箇所は削除すべきである、というものです。--Ryo 625会話2020年2月4日 (火) 00:07 (UTC)[返信]
ですから、論者の名前を記すこと自体が議論になっているのですから、ノートでそのことを議論すればよい話です。私は貴方のその主張には全く同意しません(その理由は何度も、説明しています)が、編集合戦回避のために名前の明記以外については編集を控えています。--発祥の地会話2020年2月4日 (火) 00:11 (UTC)[返信]
コメント
この文書の要旨: 書こうとする記述が主流と言えない偏った意見に該当すると思ったら、一般的なことであるかのように書かず、意見の持ち主を明確にする、事実の掲示で表すなどの改善をしてください。 — Wikipedia:言葉を濁さない
Wikipediaのガイドラインに簡潔に要約されているように、「主張する論者(意見の持ち主)を文中に明記した上でその意見を書いてください。」とあります。これを守りましょう。守れないような論者の意見をWikipediaの記述に反映させるべきではありません。というのが私の主張です。そこに何かご反論があった記憶がありません。--Ryo 625会話2020年2月4日 (火) 00:20 (UTC)[返信]
私は一般的であるかのように書いていません。「○○の一人」というのは一般論として記していることには該当しません。--発祥の地会話2020年2月4日 (火) 00:31 (UTC)[返信]
コメント あなたは「意見の持ち主を明確にする」には反しています。なぜ氏名を書けない人物を当事者とし、氏名を書けば宣伝目的となるとして隠すのでしょうか?そのような人物の意見に特筆性がありますか?
明らかに生活実態は日本にあり[7]、日本で政治コラムなどを書いている人物の意見を、なぜ匿名の「インド仏教僧侶の一人」なる肩書で記述しなければいけないのでしょうか?自らを「生長の家」の現役信者とし、「ただの沙弥、京都地蔵文化研究所研究員、日本優生思想研究所研究員、高野山真言宗、日蓮宗最上稲荷教、宝蔵神社」と規定している人物がどれほどインドにおいて活動しているのでしょうか?
彼がインド仏教復興運動の当事者であるというのはアカデミックな研究などで発表された客観的な事実でしょうか?
私はこのような人物の意見を一般名詞で書くこと、そもそもそのような特筆性のない人物の意見をWikipediaに載せるべきではなく、削除すべきだと思います。--Ryo 625会話2020年2月4日 (火) 05:35 (UTC)[返信]

で、彼は本当に今でも生長の家の現役信者なの?二年以上前の記事を出されてもねぇ。インド仏教団体の会報にインド仏教僧侶と書いてあったら、それで良いじゃん。生長の家の会報に彼のことを何か書いてあるわけ?--106.133.121.243

コメント 自身が生長の家の現役信者だとたった2年前に発言して、その本人の自己申告も現在では信用できないような人物を、Wikipediaの記述に反映させるに足る信頼性のある情報源とは認められません。このようなマイナーで特筆性のない人物の発言を記述すること自体が宣伝だと考えます。これが私が最初にWP:NOTADVERTISINGとして彼の発言による記述を削除した理由でもあります。--Ryo 625会話2020年2月5日 (水) 04:41 (UTC)[返信]

そもそも、「インド仏教僧侶の一人はアンベードカルの仏教を大乗仏教であると主張し」という文章自体がWikipedia:言葉を濁さないに抵触していると思うのですが。出典にそう書いてあったとしても、WP:NPOVとは別の問題です。--茂林寺たぬき会話2020年2月5日 (水) 14:13 (UTC)[返信]

コメント コメントありがとうございます。Wikipedia:言葉を濁さないを守るのは原則なのですが、それについては「インド仏教僧侶の中には~も存在する」を「インド仏教僧侶の一人は~主張する」とする事で問題点が改善されていると発祥の地氏は考えているようなのですが、私は別の曖昧な表現に置き換えただけのようにしか見えません。--Ryo 625会話2020年2月6日 (木) 05:40 (UTC)[返信]

私が言っているのは「日野智貴」なる人物個人に「特筆性」がなくとも、彼がインド仏教復興運動の当事者(インド仏教後援団体の会報にも掲載)である以上、インド仏教復興運動の当事者の意見として載せることには問題がない、ということです。彼自身は見習いの記事を出典にするのもアホと言っているようですが、見習いと言っても当事者でしょう。--発祥の地会話2020年2月7日 (金) 04:57 (UTC)[返信]

要するところ、件の文章の出典は当事者の書いた一次資料ということですね。Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料には、「解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべき」とあり、「インド仏教僧侶の一人は~主張する」という文章はまさしく「解釈を含む主張」です。『インド仏教復興運動の軌跡とその現況』によれば佐々井秀嶺はアンベードカルの思想を「「極大乗」あるいは「超大乗」と呼んでいる」そうです。無名の僧の発言より、名のしれた人物の発言に置き換えたほうが、後から「インド仏教僧侶の一人」の後ろにTemplate:誰を貼られるような事態に陥らなくて済むと思いますが。--茂林寺たぬき会話2020年2月7日 (金) 06:08 (UTC)[返信]
インド仏教復興運動の当事者の意見として載せることには問題がない、ということです。
私は彼の生活実態が日本にあることなどから当事者性を疑問視した意見を書き込みましたが、それへの具体的な反論はなく、当事者だと強弁されるだけでは何の説得力もありません。--Ryo 625会話2020年2月7日 (金) 09:41 (UTC)[返信]
茂林寺様、ご教示ありがとうございます。その通りに書き直させていただきます。
Ryo様、生活実態が日本にあるかインドにあるかどうかではなく、インド仏教後援団体が当事者と見直していることを根拠に、私は当事者と言っています。--発祥の地会話2020年2月7日 (金) 12:06 (UTC)[返信]

私は日野智貴氏について「誰もその仕事を評価していない未知の個人」「この人物をもってインド仏教の僧侶としてよいのか疑問」だとし、その上で当該の記述を削除しようとしたRyo氏の主張についてはインド仏教後援団体の会報でも彼がインド仏教僧侶として登場していることなどから決して同意できませんが(このことはすでに何度も触れていますが、彼からの反論は皆無です)、次の以下の理由によって削除に同意し、それを踏まえた編集をさせていただきました。

  • 日野氏自身の口から「自分は見習いである」旨のツイートがあり、よりインド仏教において地位のある人物の主張があればそれに代替されるべきであること
  • インド仏教復興運動の最高指導者とされる佐々井秀嶺自身の言葉として、より確実な出典が現に登場していること

これにより、「日野智貴氏の(当事者としての)発言」を「佐々井秀嶺氏の(当事者としての)発言」に置き換える編集をさせていただきました。結果的に、Ryoさんとの日野智貴氏の発言を出典にするかの議論はこれで終了したものと解釈させていただきます。--発祥の地会話2020年2月7日 (金) 12:17 (UTC)[返信]

当事者の自己規定について[編集]

先程の議論で当事者の主張が出典について使用できるかについて議論がありましたが、私は「佐々井秀嶺も(略)アンベードカルの仏教のことを「極大乗」の教えであると規定している」と編集しました。これが「解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべき」という方針には抵触しないと私は考えていますが、もしもそう解釈される方が居られましたら、議論はこちらでお願いします。--発祥の地会話2020年2月7日 (金) 12:20 (UTC)[返信]

コメント 出典に合わせた修正を行いました。--Ryo 625会話2020年2月7日 (金) 15:55 (UTC)[返信]