ノート:恩送り

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記事についての疑問[編集]

意味不明です、宗教団体の宣伝でしょうか。項目削除が妥当だと思いますKagefumimaru 2007年4月19日 (木) 22:09 (UTC)[返信]

NHK文化センターなどで講師をしている山下景子さんの著書『美人の日本語』でも「恩送り」は取り扱われていますね。誰でも人生長くなって他人から助けられた経験があると、そういう気持ちや概念を発見するということじゃないでしょうか。普遍的な概念であって、宗教とか全然関係ないでしょうね。山下慶子さんも、阪神大震災の時にがれきに埋もれてしまった状態になった時に見ず知らずの方に助けられた経験があるそうです。受けた恩を何とか返したい、でも何処のどなたかも分からない、ならば別の人に送ることでありがとうを伝えよう、との思いが彼女を突き動かし続けているそうです。技術者でも科学者でも同じような体験をすれば同じような気持ちになりますね。そんなわけで、昔の日本でも現代のアメリカでも、文化背景も全然違うけれど同じ概念がある、ということじゃないでしょうか。
話は若干変わりますが、先日バージニア工科大学銃乱射事件が起きた時に、航空工学だったか流体力学だったかを専門にしている老教授が、とっさに教室入り口のドアをひとりで押さえて犯人の侵入を阻止し、そのすきに学生たちに窓から逃げるように言ったそうですね。犯人がドア越しに銃を発砲し教授はお亡くなりになったそうですが、その教授のおかげでその教室にいた学生たちは無事逃げることができたそうです。ニュースなどの断片情報によると、その老教授はユダヤ人で、かつてのホロコーストを生き延びた人だそうです。自分がそういう悲惨な体験をした人だから、かつての自分や家族のように大量殺戮されそうになっている若い学生たちを目の前に見たら、とっさに何としても救いたくなったのではないでしょうか。工学の先生だから、きっと自分がドア越しに殺される可能性も即座に予見できたことでしょう。でも、自分の命が危険にさらされることになると分かっていても、それでもあえて目の前の学生たちを救いたい、という強い気持ちが起きたのだと思います。科学の専門家であろうが工学の専門家であろうが、そういう人間の気持ちというのは普遍的なのだと思います。
もしも仮に(あくまで仮にですよ)「恩送りや人助けの概念には非科学的な背景があるに決まっている」などと想像したら、それは論理的に言い換えたら「科学者は恩送りや人助けをしない」「科学的な思考は絶対に冷酷な"人でなし"を作る」と言っているのと同じことになってしまいます。それでは科学や科学者たちをおとしめているようなものです。私はそうではないと思っています。ひとりの人間の中で科学的な思考と「恩送り」のような人間の幸福を思う思考・気持ちは完全に両立するものだと思っています。上記の老教授の例もそうですし、ノーベル賞を受賞した田中さんも科学者ですけれど、ちゃんと謙虚で人間に対して愛情を持ちつづけて、良い結果を出していますよね。人間を大切に思う気持ちと、具体的な技術とが、ひとりの科学者(や科学者集団)の中で両立することによって社会的に良い結果が生まれるのだと思います。 かしこ。   by 世の中よ道こそなけれ思い入る--以上の署名のないコメントは、世の中よ道こそなけれ思ひ入る会話投稿記録)さんが 2007年4月20日 (金) 13:52 (UTC) に投稿したものです。[返信]
そんな話はしていません。この「記事」が妥当なものかどうかを論じているのです。私もこんな言葉は聞いたことがありません。 -- NiKe 2007年4月20日 (金) 13:58 (UTC)[返信]
自分が聞いた事がないから消したいとでも?なんと嘆かわしい。「恩送り の検索結果 約 931 件」。二次資料もあり掲載自体は妥当だろうに。Sionnach 2007年4月20日 (金) 15:50 (UTC)[返信]
別に消したいとは言ってませんが。えらく挑発的なことをおっしゃる。 -- NiKe 2007年4月20日 (金) 16:48 (UTC)[返信]
(可読性の為、体裁を整えました)。--Maris stella 2007年4月20日 (金) 16:59 (UTC)[返信]
すくなくとも「恩送りの実践の例」は胡散臭すぎるので撤去した方がいいと思うのですが。ここはビジネス指南書ではないのですからKagefumimaru 2007年4月21日 (土) 21:32 (UTC)[返信]
「恩返し」の項目がないのにそれよりもマイナーな言葉である「恩送り」の項目があるのは不自然な気がします。「」への統合を検討する必要があるのではないでしょうか。--Nishibiyuki会話2021年8月30日 (月) 22:50 (UTC)[返信]

このような慣習は存在します[編集]

わたしの利用者会話ページにメッセージがありましたので、関係記事等を読ませて戴きました。「 Pay it forward 」というのは、2000年頃の小説・映画のタイトルのようですが、このように、誰かに受けた恩を、相手にではなく、社会一般へと送り返すという慣習は少なくともアメリカには存在したようです。「恩送り」という日本語や、そういう文化慣習が日本にあったかどうかは、わたしは知りませんが、アメリカには確かにあったようです。どういう言葉で言われていたのかは吟味しなければなりませんが、このような考えや文化慣習があったのは事実だと思いますし、近年は「 en:Pay it forward 」という名で流布しているのだと思います。

典拠としては、たいへん古い話かも知れませんが、1960年代終わり頃の Reader's Digest という月刊誌のある号に、「恩送り」の話が載っています。アメリカの場合、キリスト教の博愛と関連があるのかも知れませんが、文化慣習としては存在していました。現在では「 Pay it forward 」と呼ばれているのでしょう。出典情報まで書かれてる記事に対し、自分がそんな慣習は聞いたことがないというだけで、削除だなどという人物は「荒らし」でしょう。慈善ノブレス・オブリージュが存在するように、普通の個人の行う「社会還元」は現象として存在し、このような行為を通じて(行為の連鎖によって)博愛や社会の向上が実現されるという思想も存在しています。問題はそれを表現する言葉が「恩送り」かどうか、ということだと思います。--Maris stella 2007年4月20日 (金) 16:59 (UTC)[返信]

慣習と言いますか、もっと良く知られた日本語では「情けは人のためならず」なんてのもありますよね。考え方として存在するのは間違いないでしょう。しかし言葉としてはどうなんでしょうかね。Sionnachさんは検索すればこれだけ出てくるとおっしゃるのですが、ざっと見ていくと『出所はどこか1ヵ所で、かなり最近のものではなかろうか』と思えてきます。中にはこの記事自体から来ているものもありますし……まともそうなのは『井上ひさしがNHKの番組中で言及した』というものくらいです(そこでは「御恩送り」となっていますが)。どうにも妙な感じがします。 -- NiKe 2007年4月20日 (金) 17:14 (UTC)[返信]

日本語「恩送り」の典拠[編集]

日本語に「恩送り」という言葉あるいは表現があったかということでは、典拠があると思えます。どの程度に、この言葉が使われていたのかは現段階では不明ですが、江戸時代の著名な歌舞伎に出てくるので、江戸時代の庶民のあいだで人口に膾炙した可能性も考えられます。

以上に「恩送り」が出てきます。

次のような文脈で出てきます:

「……利口な奴、立派な奴、健気な八つや九つで、親に代つて恩送り。お役に立つは孝行者、……」

どういう文脈でこの言葉が使われているかというと、この歌舞伎は、菅原道真とその家臣(というか、道真が取り立てた者)のあいだの恩義の話になっており、道真は、三人の優れた息子(松王丸、梅王丸、桜丸)を持つ百姓四郎九郎(白太夫)を取り立て、その三人の息子はそれぞれ貴族の舎人となり、牛車の御者となる。道真は藤原時平の陰謀により失脚し太宰府に流刑となる。三人の息子のなかで、もっとも英邁な松王はこの時平の舎人として時平に仕えていた。歌舞伎においては、時平は道真の子で「菅秀才」と呼ばれる少年も暗殺しようとし、寺子屋に入っていた菅秀才を見つけだし、殺害するよう松王に命じる。松王は道真に大恩を感じており、道真を慕ってはいたが、現在の主人は時平であり、時平に背くことは義に欠けることである。

松王の息子で、菅秀才と同じ歳頃の少年小太郎が秀才のいる寺子屋に新規に入る。その後、松王が寺子屋に訪れ、一々塾生の少年を改め、これは違う、あれも違うと、ことごとく菅秀才ではないと判断する。最後に一つの机がなお残っていることを指摘し、塾生の少年はあともう一人いるはずだ、その者こそ、秀才だと云っていると、奥で、首を斬る音が聞こえ、首桶が齎される。首桶のなかの首は、実は小太郎のものである。松王はこれを見て、「これこそまさに菅秀才の首だ」と断言する。

上の言葉は、松王が、息子小太郎の最期の様子を聞いて述べる言葉である。「恩送り」は、小太郎に対してだけではなく、続く文中で、切腹して死んだ桜丸についても云われるが、桜丸は、「恩送りせず死んだ」と述べられている。

小太郎の「恩送り」の意味は、まず道真に恩を負うのは、小太郎の祖父白太夫や父松王であって、小太郎自身は「父に恩はあるが、道真には直接の恩はない」。小太郎が潔く首を打たれ、若君菅秀才の身代わりとして死んで行くのは、父松王に対する恩を、父に代わって、道真に益することを通じて恩返ししたことになる。本来、松王が恩返しせねばならないことを、父への恩に報いるため、恩を道真に送ったことになる。記事が説明している「恩送り」とは、少しずれがあるが、単純な「恩返し」とは異なっている。「恩を送る」という表現もあり、「御恩送らず」という表現もあるので、「恩送り」とは「恩を送る」の短縮形の体言止めなのか知れないが、名詞とも考えられる。

このように確かに江戸時代の書籍(歌舞伎の科白)に、「恩送り」という言葉が登場している。--Maris stella 2007年4月20日 (金) 20:57 (UTC)[返信]

そのような埋もれた言葉を発掘して、新たな意味を付与して普及を図るものが存在する、というならば、その普及の目論みについての記述をメインにすべきでは。 googleの検索結果から言っても浸透した語彙ではありえないし、Wikipediaは思想の表明の場ではありません。Kagefumimaru 2007年4月21日 (土) 23:39 (UTC)[返信]

『精選版 日本国語大辞典』(Web)で「恩送り」を引くと「=おんがえし(恩返)」と記載があり、辞書的には「恩送り」と「恩返し」は同一の意味とされています(参照 恩送とは - コトバンク)。ちなみに、『菅原伝授手習鑑』の「寺小屋の段」は現在、リンク切れとなっています。--Nishibiyuki会話2021年9月1日 (水) 12:32 (UTC)[返信]

編集[編集]

リンク切れ、典拠のない記述、調べ物に不要な文章を削除し、助長な文章を簡便にしました。--211.135.23.121 2008年5月30日 (金) 16:42 (UTC)[返信]

恩返しのこと?[編集]

これは恩返しのことですか? 「恩送り」という言葉は一般的ではないし、使われている作品などもたくさん存在しないようですね。削除するのがいいと思います。具体的に使われている作品がたくさんあるなら別です。具体的な作品がたくさんありますか? なければ削除しましょう。造語なんて誰でも言えますよね。--Hu9z 2009年11月9日 (月) 12:12 (UTC)[返信]

井上ひさしの本に書いてあるところによると、恩返しとは違うものですね。上のノートにもいろいろ書いてありますね。--WelcomimgChattingbirds 2009年12月19日 (土) 16:48 (UTC)[返信]

広辞苑の出典[編集]

この時点の出典として2件、広辞苑が挙げられていますが、広辞苑何版の何頁の記述でしょうか。 すくなくとも、2版、3版6版(CD版)では「おんおくり(恩送り)」そのもののは載っていません。そのものが載っていないのに、敢えて関連付ける文脈の記事の記述への出典としては好ましく有りません。明示がなければ出典の削除対象ともなります。--Namazu-tron 2009年12月20日 (日) 18:02 (UTC)[返信]

広辞苑の出典が付されている「恩」の記述は削除しました。--Nishibiyuki会話2021年9月1日 (水) 16:20 (UTC)[返信]