ノート:平原遺跡

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1号墓から出土した銅鏡の個数ですが、全部で「39面」でなく「40面」となります。大型の内行花文鏡について、割れた鏡の破片を集めて修理し4面の鏡として復元していたのですが、5面分の破片が含まれていたことがわかり、国宝指定の際に「40面」に訂正されています。詳しい事情は こちらのサイトこちらのサイト を参照してください。

次に、「出典」として挙げられている「伊都国通信」ですが、学術資料としての正確性にいささか疑問があります。

  • 出土品の数量と種別について、同じ「伊都国通信」でも「vol.1」と「vol.3」とでは書かれている内容が違っています。「vol.1」に「ガラス製連玉多数」とあるのが「vol.3」には見当たりません。一方「vol.3」には「蛋白石丸玉約500」とありますが、これに該当するものが「vol.1」には見当たりません。
  • 「vol.3」では「後漢鏡32」という記述の後に「(大型6、中型27)」とありますが、6たす27は33であり、計算が合いません。
  • 「vol.3」の副葬品一覧表では「前漢鏡2+α面」は5号墓からの出土となっていますが、この報告ではもっぱら1号墓と2号墓の調査について述べており、5号墓を調査したことについての言及がありません。
  • 「vol.1」には「琥珀蛋白石」という語が出てきますが、「琥珀」と「蛋白石」(オパール)は別物であり、「琥珀蛋白石」という物質は存在しないと思います。

以上のことから、「伊都国通信」に書かれている出土品の内容・数量には信頼が置けず、他の資料を参照して妥当と思われる記述に直しました。別の資料、たとえば 福岡県教委のページ「糸島新聞」などを見ると、出土品の内容・数量は微妙に異なっています。官報告示はどうなっているかというと、平成18年6月9日、国宝指定時の告示には「ガラス勾玉3」と「瑪瑙管玉12」は個数が明記されていますが、他の玉類は「ガラス小玉一括」のように「一括」という扱いで、数量を明記していません。

銅鏡の年代ですが、大型の内行花文鏡は大陸に類例がなく倣製鏡とされていますが、それ以外の鏡については中国製か倣製鏡か定かでないようで、「伊都国通信」のように「前漢鏡何面、後漢鏡何面・・」と断定してしまうのは問題がありそうです。「ほう製鏡」の「ほう」は文化庁などの解説では人偏に「方」と書く字を使っていますが、この漢字がJIS漢字コードにないことと、「倣製鏡」という用例もあることから、「倣」にしました。--Urania 2008年5月11日 (日) 04:55 (UTC)[返信]

修正と補記[編集]

平原遺跡1号墳(平原弥生古墳)の出土鏡数は正確にはまだ確定していない
何故なら「科学的分析に先入観を含んでの再調査依頼による結果報告書の提出」という落ち度があるからで、先の分析結果の記載のある「平原弥生古墳、大日孁貴の墓 原田大六著」からの引用とする「前原市調査報告書第70集、平原遺跡」には故意にデータ表の削除が行われている。これは「誤差の範囲内に収まるデータ数値の削除」と見れる節すらある。そもそも「出土した時に破砕していた銅鏡の中心部分となる鈕の数が四つ」であり、この事と「完形に修復できるのは2面と3分の2である(盗掘されたり途中で盗まれたという可能性は発掘した原田大六が否定しているし、正しくは農家が掘り出した部分で完形の二面が修復出来、発掘調査によって出土した部分は完形とは出来なかった)」のであるから、発掘者の原田大六は「内行花文八葉鏡(大型内行花文鏡)は四面である」としたのである。
だが、報告書責任者の柳田康雄は地元学者の井手將雪の再調査のやり直しの申し出に「言いがかりをつけるのか」とし、揚句、五面にした理由を「見ればわかる」と言い捨てたという(井手氏弁)。今、糸島市の議員を通じての'再調査依頼が出されてはいるが、果たして実行されるかどうか。
 その事は別として「科学的分析結果の考察(二回分を合わせて)」の結果は「鈕の部分が四つある事から、内行花文八葉鏡(大型内行花文鏡)は四面かそれ以上の数になる」というのが本当の処である。故に「五面説」は眉唾である。考えるに「国宝にする」という意識しすぎからか。まさか「数は多い方がいい」などという考えからではあるまいと思いたい…。

「琥珀蛋白石」とは「琥珀色した蛋白石」である。と最初の報告書にある。
正確な出土遺物の種類と数を知りたいならば「平原弥生古墳、大日孁貴の墓 原田大六著」を参照の事。

というか、上記の記入した人、あなたは現物を見た事ありますか、と聞きたい。特に考古学の遺物は同様の名称で一括にされてしまいがちだが、最近のネタでいえば、桜井茶臼山古墳の出土した銅鏡の数が「81面」としているが、正しくは「81種類」であり、の点から見れば「平原弥生古墳」を超える物ではないと云える。

「大柱」と市教育委員会の報告書にあるモノは土壌成分未調査であり、浅く湧水があったことから原田大六は「井戸」として報告している。これを何の証拠の提示もなしに「大柱跡の穴」とするのはいかがなものか。土圧の測定等を行わずになぜ、結論が出るのか不思議である。そもそも、その穴は南方向にえぐり彫った跡(横断面は穴に向かって深くなる)があり、「はやの風(南風)」の吹く土地であるから、「大柱の倒壊」を理由とすることはできない(倒れた跡とするならば北側に付くはず)。建てる時のモノとするならば、盛り土し、土地本来の地面の強度を損なうことなく作業するはずであって、あの状況からすると「わざわざ倒れるように建てた」という事になって本末転倒となる。
確かに位置的には「殯宮の柱跡の棟持ち柱を結ぶ直線上の位置」にあり、かつその先には「日向峠」がある。だが、ここで考えれば判るが、「平原弥生古墳」から「日向峠を拝む」ときに、「目の前に柱がある」という状況を市報告書は復元したのだが、その状況は「日向峠を拝む」ためではなく「大柱を拝む」事になる。市報告書に例えてある「諏訪大社」の「大柱」と規模が同じというが、何が目的でそこに必要なのかを考えれば「平原弥生古墳」には、この「大柱は必要ない」という事か判る。
平原弥生古墳から見て、神嘗祭の日の日の出が日向峠から昇る」事を神聖視した結果の遺構である。原田大六は「その日の出の光が埋葬者のホトを射す」と云う。その日の光を「大柱」は遮る存在となる。よって、必要性はない。位置的に存在すると考えられるのは、「棟持ち柱を建てる時の位置確認のための当てとしての柱」であり、完成時には撤去されたと考えられ、後の時代にその跡を「井戸」とした、というのが妥当なところだろう。

--利用者:天火明命2010.8.12.

銅鏡片の破砕状況について[編集]

「副葬されていた多数の銅鏡片は人為的に破砕されたモノではない」と実際に実物を取り出した原田大六は云っていたし、著書にもそう書いている。「破砕された銅鏡片は四ケ所に埋納されていた」事などから、「NHK」の番組の復元想像とは「状況を異にする」。あれは「破鏡再び見えず」との思想からだろうが、「日継の儀式の後に使用した鏡を割った」と云うのなら何故に「四カ所に分けてあるのか?」の説明すらないし、なにより「その四カ所に分かれていた破片から一つの鏡が復元できた」というのが実際の状況である。「儀式後に割ったとしたら一か所から一つの鏡が復元できる」事になるはずである。
この事から原田大六は、「別の場所で何らかの事故によって粉々になった銅鏡を集めて、四カ所に分けて副葬埋納した」と云っていた。現時点では銅鏡の数は「40面」となっているが、このうちの「1/4程度は破片が足らす、バラバラのまま」であって、「故意(人為的)に破砕したとしたら、その破片は一括して埋めるはず」とも云っていた。
そもそも「大型内行花文鏡」すら「約1面と3分の1の破片が不足」している。
あの「直径46.5センチメートル」の大鏡を「人為的に破砕した」として、「不足した鏡片は何処に行ったのか?」、「人為的ならば何故に破片を集めて完形とできないのか?」。
「古墳時代の銅鏡の副葬の思想の先駆け」かも、と番組は云っていたが、「古墳に副葬されている銅鏡は『完形』の状態で副葬されている」のと、復元想像の「儀式後に鏡を割って副葬埋納した」というのとは、銅鏡の使用方法に雲泥の差があり、「銅鏡を使っている」という事以外は共通項はないのだが。

ついでに、墓壙の12本の柱跡について書けば、「NHK」のあの復元は何の根拠もないのでは、と思えるくらい脚色がすごいと私は思う。
確かに12本の柱跡は「棟持ち柱を持つ掘立柱建物」であろうと思われるが、その棟持ち柱が東と西にある。つまりは太陽の方向にある。これの意味する事は、「太陽が柱に遮られる」事を意味する。つまりは、建物があった時点であの儀式を行う事は不可能だろう、という事だ。
加えて、その柱跡は上から見て「平行四辺形」になっていて、この通常と違う形状から原田大六は「殯宮の柱跡」では、とした。

番組にあった「平原一号墓の主は、卑弥呼の母か姉では?」と云う説は、「三雲南小路遺跡」や「吉武高木遺跡」、「須玖岡本遺跡」などをどう説明するのか知らないが、現時点ではその説は否定も肯定もできないモノだが、「三親等以上は離れていた」と考える方が遺物からすれば妥当だろうと私は思う。景初二年、三年が「AC.238」としてだが。

--利用者:天火明命2014.6.17.

初歩的なことですいませんが[編集]

注釈1について。つまるところ、文章が何を言ってるのか日本語としてよくわかりません(すいません素人で)。内容の批判等ではありません。 ・「完形」とはなんですか?私には「3分の2」は「完形」とは思えないのですが ・「完形と修復できる」は「完形 & 修復できたもの」に読めるのですが、違いますよね?「完形に修復できる」ということですか? ・「完形に修復できるのが2 + 2/3」と「鈕が4個」でどうして「鏡は4個」なのか、理系タイプである私は、考古学素人なので算数として計算が導出できません。まして「完形 + 2/3 = 4」と読めて(上述の「と」の解釈)、なんだかよくわかりません。(それなら 2以上=3個) もし私の「よく言ってることがわからない」が妥当でしたら、その観点で明瞭な文章をどなかたに記述していただきたいです。 --240B:10:2CE0:800:CC8C:5628:80E2:79A3 2020年1月14日 (火) 22:51 (UTC)[返信]

現場の発掘調査で得られた資料から、元の形に復元できるモノ、又は一部でも復元できるモノを指して「完形にできる」と云ったのでしょう。 内行花文八葉鏡は、復元できるのは「鈕が4つあることと、約60破片あった」ことから「原田大六」氏は「4面」としている。 役所の調査は2つのサンプルの比較であって、破片すべての比較検証でないことから「5面」の妥当性はなく、結論からすれば「4面以上あったかもしれない」という結論しか導けない。