ノート:唯識

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記述が難解すぎます。わかりやすくする努力をしませんか? 一ヶ月反論がなければ全面書き換えに取り組もうと思います。--塩崎伊知朗 2007年3月28日 (水) 06:29 (UTC)

特に難解という感じはありません。書き換えない方がいいと思います。各仏教用語がわからない場合は、リンク先を読んだ方がいいと思います。一度に全部を把握することは無いと思います。--ゆきち 2007年3月28日 (水) 06:56 (UTC

やはり異常に難解な部分が多いです。「集起の義」などというような表現は改めたほうがいいでしょう。--202.225.235.9 2007年3月28日 (水) 10:07 (UTC)[返信]

同じく難解だと思います。冒頭の「唯心論的傾向」からして、もっと具体的に述べられないのか?と感じました。引用だけでなく、地の文による説明が必要だと感じました。--fryed-peach 2007年3月30日 (金) 06:47 (UTC)[返信]


今更な話かも知れませんが、ウィキペディアでは、記事が誰の目から見ても改善されるというような改稿であれば、特に断りなく、1ヶ月を待たずに着手されて構わないと思います。

塩崎伊知朗さんのこれまでの仏教関連の執筆歴を拝見させて頂いた限りでは、特に塩崎伊知朗さんであればうまくやって下さるに違いない、是非お願いしたい、と思わせる材料は見当たりませんでしたし、と言って、是非やめて欲しいと思わせるような材料もありませんでした。つまるところ大いに賛成する理由も反対する理由も決め手になるほどのものはなかったので、とりあえずやってみて、書き上げたものについて全面改稿前と後とでどちらがどう優れているかなどコメントを募集されてはどうでしょうか。あまり評判がよくなければ以前の版に差し戻すこともできますし、他の方が加勢して下さるかも知れませんし。

現在の記事がわかりやすいかわかりにくいかと言ったら、わかりいくいと思いますが、「難解過ぎる」かというと、そこは意見が分かれるところのように思います。唯識のような概念の説明はこの程度難しいのが当たり前であって、難解過ぎるというほどではない、いろいろ他のもっと入門的な知識を持った人向けに書かれていてしかるべきだからこの記事はこのような形でよい、という意見などもありうると思います。

それと関連して、全面改稿によってわかりやすくするというのは、この記事内にある各種の用語に解説がつくということになるのかな、と考えてみて、それがよいことなのかはわかりませんでした。これはゆきちさんの意見と一部近いかも知れませんが、関連記事を充実させることである程度わかりやすさの改善を図るというのがよりよいアプローチかも知れません。

それから、わかりやすくすればその分正確さを損なったり、執筆者の独自の見解や解釈が入り込んで結果として読者にとって望ましくない記事になってしまうというのもまたありがちなことのように思いますが、方便や不正確な喩え話はそういう風に断っての上であれば、ある程度はあった方がいいと思いますし、より正確な説明との組み合わせであれば特にそうだと思います。

「全面改稿」よりも今あるものを活かした加筆推敲がいいのでは、ということは思いました。「成立と発展」「特色」の2節は他よりわかりやすく書かれていますのでそれを冒頭に持ってきて充実させてはどうかとも考えました。

この部分を執筆されたのは利用者:マイコン坊主さんですが、現在もウィキペディア日本語版で活動されているので、そういった他の執筆者に批評をお願いしてみるというのもよいのではないかと思いました。すでにご存知かも知れませんが、Wikipedia:査読依頼というものもあります。

Tomos 2007年3月31日 (土) 14:05 (UTC)[返信]

どうも皆さんありがとうございます。当面加筆推敲でやっていこうと思い、マイコン坊主さんに連絡を取ったところ前向きのお返事を頂きました。 --塩崎伊知朗 2007年4月2日 (月) 08:52 (UTC)

難解‥‥ということは分かっているのですが、現代語に直すと、どうもニュアンスが‥‥さりとて最近の唯識の先生方の書き方だと、余計に誤解を招きそうで‥‥悩んでおります。とりあえず、手を付けられる人から書き換えをしてください。ボクとしては、もう一度、どの程度につめるべきか考えたいと思います。booze 2007年4月2日 (月) 08:57 (UTC)[返信]

booze様、どうもお騒がせして済みません。とりあえず、Tomosさんのご意見を参考に「成立と発展」の部分を先に持ってきました。やさしいところからだんだん難しくなるという構成にして、入門者から上級者に至るまでそれなりのものが得られることを目指してみました。--塩崎伊知朗 2007年4月2日 (月) 10:30 (UTC)
それにしても「唯心」と「唯識」の異同は興味のあるテーマです。なんとかわかるようにしていただければあり難いです。唯識は華厳経の「三界唯心」を根拠にしていると聞きますが、それは間違いないのでしょうか?
それは間違いありません。ただ、華厳経の場合は、既に書いたとおり、仏の側からの存在現象の把握であり、唯識では人間‥‥修行している‥‥の存在現象の把握ですから、方向性が異なるのです。そこに注目して欲しくって書いているわけです。booze 2007年4月2日 (月) 12:25 (UTC)[返信]

ということで、難しいとされた「集起の義」「了別の義」を説明しながら書いてみました。しかし、こう書くと逆に曖昧になり、難しくなるのが難点ではないかと思います。booze 2007年4月2日 (月) 12:25 (UTC)[返信]

坊主様、さすがに以前と較べると少し見当がつくような気がします。「華厳経」は仏の側から、「唯識論」では迷える衆生の側から「ただ心だけがある」ということを説いているのだということですね 。「因果に通ずる」とか「因位にある」というのはどういうことでしょうか?--塩崎伊知朗 2007年4月2日 (月) 13:25 (UTC)

因果に通ず‥‥と言う場合、因は仏道修行のことで、果は仏として働くことを言います。つまり、唯識は仏道修行のためのものであって、仏となってからは唯識の理屈は使えないことを言ってます。booze 2007年4月2日 (月) 18:33 (UTC)[返信]

唯識で「仏の世界」というと「転識得智」という考え方がありますが、転識得智によって得られた「智」(大円鏡智平等性智など)は「果」の世界あるいは「唯心」の世界で、転識得智以前の阿頼耶識・末那識などは「因位」「唯識」の世界と考えてよいのでしょうか?--塩崎伊知朗 2007年4月3日 (火) 03:09 (UTC)
ほぼそういうものと考えて良いと思います。厳密に言うと差異があるから別の言葉になっているんですが、一つのものだと考えて差し支えはありません。booze 2007年4月3日 (火) 03:24 (UTC)[返信]

ところで、もっと識の転変についても書き加えた方が分かりやすいかしら?booze 2007年4月3日 (火) 03:25 (UTC)[返信]

転識得智の説明があった方が内容が豊かになると思います。--塩崎伊知朗 2007年4月3日 (火) 04:04 (UTC)
「因果」「因位」について注釈をつけておきました。--塩崎伊知朗 2007年4月3日 (火) 04:06 (UTC)

種子と識の転変について書いてみたが、かなり分かりにくい。『唯識三十頌』を現代訳する方が分かりやすいかな?booze 2007年4月3日 (火) 13:49 (UTC)[返信]

かなり歯ごたえ、ありますね。(笑)
>認識するものは種子(しゅうじ 阿頼耶識の内容)と呼ばれている。
という一文がありますが、種子が認識の対象になるのでしょうか?認識の主体とも読めなくもないです。--塩崎伊知朗 2007年4月3日 (火) 14:38 (UTC)
そのあたりも含めて、30頌からの翻訳にしましょう。それと、三性を切り離した方が分かりやすそうだ。ちょっと時間をください。booze 2007年4月4日 (水) 22:31 (UTC)[返信]
楽しみにお待ちしております。--塩崎伊知朗 2007年4月6日 (金) 01:04 (UTC)

さて、まとめてみましたが、どうでしょう。久しぶりにサンスクリットと格闘して頭が痛いのですが‥‥。おおよそ30頌のほとんどを取り入れました。後は、この部分とダブッた部分を削除して整合性を持たせれば良いと思います。booze 2007年4月12日 (木) 04:36 (UTC)[返信]

大変なご労作、ご苦労様でした。悪戦苦闘しながら解読中です。ひとつ気になるのは「成立と発展」の項の末尾にある「無相唯識と有相唯識」です。成立と発展の流れに合わないような気がします。もっと後ろのほうで一項目を設けて説明したほうが分かりやすいのではないでしょうか。--塩崎伊知朗 2007年4月12日 (木) 14:26 (UTC)
それでも良いのですが、発展と言う意味で、ことに中国唯識と大きな関連があるので、ここに入れました。booze 2007年4月12日 (木) 18:23 (UTC)[返信]
この部分には具体的な中国唯識との関連性を明記するといいと思います。--塩崎伊知朗 2007年4月13日 (金) 03:04 (UTC)
「異熟」・「思量」・「了別」というのは阿頼耶識、末那識・前五識と意識の別名と考えてよいのでしょうか?--塩崎伊知朗 2007年4月12日 (木) 15:20 (UTC)
実は、そこを悩んでいました。思量は末那識と意識で構成され、了別は前六識とするべきなんでしょうか。論書によって異なっています。booze 2007年4月12日 (木) 18:23 (UTC)[返信]
最後の部分に三島由紀夫の「豊饒の海」と唯識について加筆しておきました。文学との関連を入れることにより親しみやすさを出せればと思っています。--塩崎伊知朗 2007年4月13日 (金) 06:20 (UTC)

全体的に分量が増えた割りに分かりやすくなっていない印象をもちます。少しテーマを絞ってあまり高度な議論は整理したほうがよいと思います。Wikipediaはあくまでも百科事典であり、専門書ではないのですから、入門的なことがコンパクトに書かれているほうがいいのではないでしょうか。--塩崎伊知朗 2007年4月13日 (金) 16:30 (UTC)

体調不良のため急遽入院することになりました。病院ではネットが使えない様子です。ひっかきまわして整理のついてない段階で放り出すような感じになってしまい誠に申し訳ありません。--塩崎伊知朗 2007年4月16日 (月) 03:48 (UTC)

早くお元気になってお帰りになるのを待っております。それまでに整理して、もっと分かりやすくしておきましょう。booze 2007年4月16日 (月) 18:18 (UTC)[返信]
お蔭様で無事帰って参りました塩崎です。早速ですが、冒頭からサンスクリットがずらりというのは如何なものでしょうか。初学者が見たら腰が引けてしまわないでしょうか。私は「唯識」の項を二段階に分けて、前半の部分に初学者向けの分かりやすい解説を載せ、後半に坊主様の専門的な解説載せることにより分かりやすさと、専門性とを両立させようと考えています。その方向で少し任せてはいただけないでしょうか。--塩崎伊知朗 2007年5月20日 (日) 19:40 (UTC)
大変申し訳ないとは思ったのですが、「語源」の詳細な考証は注釈という形にしました。そのほか、本文にも手を加えました。--塩崎伊知朗 2007年5月21日 (月) 20:23 (UTC)

以下の引用部分が意味不明です。種子生現行について書いたものか? 「また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に薫習(くんじゅう)され、このサイクルを習気(じっけ)と言う。これが思考であり、外界認識であるとされる。」 外界が存在するようにも読めます。--塩崎伊知朗 2007年5月22日 (火) 13:07 (UTC)

「習気」は「種子」の別名ではなかったかと思います。現行生種子、種子生種子、種子生現行のサイクルは「阿頼耶識縁起」と呼ぶのではないでしょうか。--塩崎伊知朗 2007年5月22日 (火) 13:42 (UTC)