ノート:吉無田水源

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記述の正確性の問題点[編集]

熊本日日新聞くまもとエコモーションキャンペーン【第一回 三百四十万本の木がコメを作る】2005/07/27掲載、御船町HP「元禄・嘉永井手 九十九のトンネル」、熊本国府高校HP「植林の効果」、DINING EXPRESS「熊本名水100選『吉無田水源』」、個人HP「御船町の九十九のトンネル」などの記事に拠れば、初版記述にはいくつか正確性を欠き、重要部分で独自見解を展開している箇所があると思われます。以下に指摘させていただきます。(なお、参考情報は出典が明記されない伝聞によるものばかりなので記述出典とできるほど権威あるものとはいえず、これらを基にしての記事修正は行いません。)--218.110.170.81 2009年11月28日 (土) 15:24 (UTC)[返信]

  • >阿蘇山の外輪山の裾野に位置する。現在の吉無田一帯の旧七滝村は
位置は正確には外輪山の「東南の」裾野の「吉無田高原」といわれる地帯である。
  • >水源が無く、耕作が不向きの土地であった。
  • >地域の各水無川では水が流れるようになり、やがて農業用水の建設が可能になったという。
吉無田水源となっている山林の植林が始まる文化12年(1815)に先立ち、寛永から天和年間(1624~1684年頃)にかけて下流の水田用水として八勢川上流部の干無田に堰を設けた全長20kmにも及ぶ清水井手という用水路開設工事が行われている。従って、「水源がない」というのは事実に反し、「水無川」という表現も不適切である。七滝があったということは、「井出」開設以前にも川沿いでは細々と水田が作られていたであろうし、草地の高原は草刈場としてしか利用できなかったであろうと思われるが、これをして「耕作が不向きの土地」と全く農業不毛地のように思われる表現は行き過ぎであろう。植林に先立ち用水が建設されており、単純に「やがて農業用水の建設が可能になった」わけではない。これをいうなら、嘉永6年(1853)~安政5年(1858)に造られた28kmにわたる「嘉永井手」建設可能になったというべきもの。
  • >肥後藩の下級役人であった光永直継

「山支配役」という役職にあったようだ。「嘉永井手」開設の村方代表は木倉郷総庄屋光永平蔵といい、同じ光永姓であり、関係はどうなのか?

  • >地域住民の困窮を見かねて、
清水井手開設により下流部で水田耕作面積が増えたものの、流量不足で水争いが起き、その結果というべき。
  • >藩に分収林方式の森林経営を提案
「分収林」というのは現在の用語であり、当時は何といったのか。また、明治維新後は国有林となり、「緑のオーナー」制度が創設されるまでに国有林には「分収林」というのはなかった。
  • >1867年の明治維新まで続き、数百万本もの苗木が植えられたという。
「文化12年(1815)から弘化4年(1847)まで約240万本」あるいは「文化12年(1815)から慶応3年(1867)までの52年間に約340万本」という具体的な数字が出ている。当初の植林面積はどれくらいだったのか?
  • >分収林の性格上、数十年サイクルで伐採と植林が行われているが、
上述の通り、当該国有山林が「分収林」であるというのは事実なのか?また、航空写真によれば、林道が多数走り、伐採後の荒蕪地があるのも見て取れる。水源涵養林の機能を維持するための具体的な伐採計画・ローテーションがあってしかるべきだと思うが、これに関する情報というのはないのか?
  • >一部には植林を始めた当初の森林が保存されており、樹齢はまもなく200年に達するものとなっている。
「学術参考林」という名目で保存され、その数は約800本という具体的な数字が出ている。

記事の記述について[編集]

当記事の主出典は、「森林土木今昔物語(森林土木今昔物語編集委員会編-全国森林土木協会内-)」に依ります。

  • ご指摘の「阿蘇の外輪山」の位置づけですが、リンク元になっている御船町のリンクからいただいたものです。裾野という表現は、語弊があるかも知れませんが、広義の外輪山は極めて広い範囲に当たりますので用いました。
  • 出典には、一帯が「飲料水や耕作の用水等が不足し、水確保に大変苦労した土地柄であった」とあることから、本文では「水源が無く耕作が不向きの土地であった。」としたところです。「無く」というのは言い過ぎかもしれませんが、飲料水の不足にまで言及していることから、耕作は不向きとしたところです。農作物が全く収穫はできないという趣旨ではありません。
  • 吉無田水源の建設のきっかけとなったであろう、寛永年間から天和年間にかけて作られた「元禄井手」の件ですが、出典元に経緯が記されているものの、地図の掲載はなく、森林(340ha)と元禄井手の地理的な位置関係が不明(両者の関係が、さほど密接性が明確ではない可能性もある)でしたので記述を回避しました。元禄井手の資料等をお持ちの方に記述(もしくは独立した記事立て)を委ねたいと思います。これは、森林が造成された後に作られる「寛永井手」についても同様です(特に、寛永井出は、現在も堰や暗渠が残る貴重な土木的遺産のようですから、そちらの記事が触れる方が良いのではないでしょうか)。
  • 光永直継の肩書きの件です。出典には「山支配役」とありますが、当時の吉無田水源周辺は水が事欠くほどの状況ですから、藩が「御役」を配置する(もしくは注目する)ほど有用な森林が豊富にあったとは考えにくく、光永が最初から「山支配役」であったかという点に疑問を感じています。吉無田水源の整備を任された後に「山支配役」に収まった可能性も有りますので、万が一のことも考えるとともに出典の記述と齟齬を生じないように「下級役人」という記述にしています(どのレベルの役職まで「役人」扱いすべきかという問題は残りますが、記述上無難だと考えました)。
  • 分収林の件ですが、出典には「2官1民の部分林」とあります。要するに、現代の分収林と類似することから、平易でかつ他の記事とリンクできるように分収林「的」という表現を使っています。ただし、「官=肥後藩=明治政府?」という関係が成立しているかどうかが不明確です。現在でこそ、林野庁所管の国有林ですが、藩有林(分収林的な森林)の権利が、そのまま林野庁(戦後発足した官庁)所管にすんなり移行しなかった可能性があります。そうした場合、「官」とストレートに表現するには無理がありますので、分収林的な経営内容の部分の記述は避けました。
  • 苗木の本数ですが、出典では、「文化12年から弘化4年までに240万本」と記述されていますが総数は不明です。吉無田水源の造成自体は慶応3年(1967年)まで続いていますので、途中経過の本数を総数と受け取られないように、直接的な本数の記述は避け数百万本という記述にしています。
  • 水無川の記述ですが、用水と同様、位置関係が不明であること、八勢川が地域的に重要か否かについては資料を有していないこと、他の記事とリンクできるようにという考え方、八勢川という固有名詞ではなく、普通名詞としての「水無川」を用いています。

今後は、より詳しい資料や情報をお持ちの方に、どんどん書き直しおよび加筆して頂きたいと考えています。--橄欖岩 2009年12月2日 (水) 12:38 (UTC)[返信]