ノート:南光坊

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修正理由の説明[編集]

自分なりにいくつか資料を調べて行った修正がリバートされていました。リバートされたことに単純に腹を立てて機械的に自分の版に差し戻すというようなことはしないつもりですが、元の版には、百科事典の解説文というより講談の語りのような文体になっている部分、歴史記述について辻褄が合わなかったり曖昧な部分がありますので、一般読者の便を考え、その部分は修正しなければならないと思います。以下に、なぜ修正を行うのかを説明します。単なる修正のための修正ではないことをご理解いただければと思います。また、出典を明示しようという姿勢は理解できるものの、挙げられている文献資料がエッセーや観光ガイドの類のみであることも気にかかります。

  • 山号院号は山号を先にもってくるのが決まりです。「別宮山金剛院南光坊」であり、「金剛院別宮山南光坊」ではありません。
  • 「興り」という小見出しは現代日本語として不自然であり、「創建」「創始」「草創」「起源」などがふさわしい表現と思われます。
  • 「時は大宝律令の発して間もない大宝の世の末なる3年」という表現を削除します。理由は以下の通りです。「大宝」は4年しか続かなかった年号であり(大宝4年5月に「慶雲」に改号)、「大宝の世」とか「大宝の世の末」などという表現は不自然です。「時は・・」という講談の語りのような言い回しは百科事典にふさわしからぬものです。また、「大宝律令」は本記事と直接関係ないことであり、ことさら言及する必要のないものです。以上の点を修正し、語順を読みやすく変えただけで、内容の骨子は生かしていますし、元の表現もできるだけ生かしていることがご理解いただけると思います。
  • 大山祇神社の「祇」は「祗」とは別字です。
  • 『日本歴史地名大系 愛媛県の地名』、『角川日本地名大辞典 愛媛県』等によると、南光坊が大三島から現在地に移ったのは奈良時代ではなく、正治年間(1199 - 1201)とされています。専門の研究者によって執筆され、大抵の図書館に所蔵されている基本資料にそのように述べられているのですから、ウィキペディアのもっとも大事な方針の1つである「中立性」に基づき、正治年間移転説も併記すべきでしょう。
  • 「戦国時代(1493年頃~1573年頃)に差し掛かった折、伊予の全土を襲った長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、もって天正年間(1573年~1592)中に失することとなった」とありますが、「戦国時代に差し掛かった折」に焼き払われ、戦国時代が終わった直後の天正年間に「失することとなった」というのは辻褄が合いません。諸資料を参照すると、南光坊は天正年間に長宗我部氏の軍勢の兵火で焼かれたようであり、「戦国時代に差し掛かった折」というフレーズは不要と思われます。
  • 「何々を本尊に拝する」というのもあまり聞かないフレーズです。「何々を本尊とする」あるいは「何々を本尊として安置する」等と言うのが普通です。
  • 「大通智勝如来を本尊とするのは四国八十八箇所で当寺のみである」ということは、客観的事実であり、そのことについて出典を挙げる必要があるのか疑問です。仮に出典を挙げるとしても「MSNトラベル」のようなものではなく、専門書や事典を挙げるべきかと思います。
  • 大師堂のようなお堂については「置かれている」でなく「ある」というのが普通だと思います。よろしくご理解願います。Urania 2007年5月19日 (土) 10:14 (UTC)[返信]