ノート:出浦盛清

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ネットやゲーム上で忍者であったとされる出浦対馬守盛清に疑問があったので調べました。忍者だったのは、出浦対馬守盛清の子である出浦対馬守幸久であり、一般的に混同されているのではないのかと思ったからです。2人とも忍者だった可能性もあるかもしれませんが、2人が全く同じ行動を取るとも思えませんので。

盛清についてですが、満泉寺の出浦家系図や更級郡誌において見る事ができました。出浦対馬守盛清は出浦主計頭清種の子、出浦下野守清正の弟、そして出浦対馬守幸久の父と記録されているくらいで、忍者であったという記述は見つかりません。

一方、幸久ですが、信濃国松代真田家文書御家中明細の出浦家系図では十八才の時武田家の忍者として存在していたことが記述されています。また「真田家戦功録」では「出浦対馬守」が武田家の忍者として記載されています。ここでは諱の「幸久」までは記載されていませんが、その文中に上総守から対馬に改めたという記載があるので、幸久のことで間違いないと思われます(上総守から対馬守に改めたという記述は、信濃国松代真田家文書の出浦家系図にも記載されている)。また、長野県内に「昭和十一年、十六代建之」と刻まれた幸久の石碑があります。恐らく幸久への追慕のために末裔が建てたものだと思います。このような碑を没後300年経ってから建てるという事は、幸久にそれなりの功績があり、末裔の方に伝えられていたからだと思えます。

盛清と幸久が混同されている原因として、以下のような系図における親子関係の記載の違いが考えられます。

【満泉寺出浦家系図】
対馬守盛清-----対馬守幸久

【信濃国松代真田家文書御家中明細】
対馬守頼幸(元和九年八月十八日)-----対馬守幸久(元和二年九月十九日没、法名:圓光院泰山宗智) ※対馬守頼幸の項に、武田家から森武蔵守に移り武勇あり云々〜という記述がされている。系図は江戸時代(寛政)まで。

【信濃国松代真田家文書】
四郎左衛門尉-----対馬守幸久(元和九年八月十八日没、法名:圓光院殿泰山宗智居士) ※対馬守幸久の項に、武田家から森武蔵守に移り武勇あり云々〜、十八才の時武田家に仕え、忍者を統率した〜云々という10ページにもわたる幸久に関する記述がされている。系図は明治時代まで記載。

このように、系図によって記載が異なるために、また、親子で対馬守を名乗っていたため混同が生じた可能性があると考えています。3番目の「信濃国松代真田家文書」に記載された没年と法名は長野県内に現存する幸久の墓石(前述の石碑とは異なる)に刻まれたものと合致し、また系図も明治時代まで書き加えられているので、後年に精査されて再編集されたものと考えられ、信憑性も高くなっていると思います。

※「信濃国松代真田家文書御家中明細」と「信濃国松代真田家文書」は別物。


以上のように「親子で2人とも対馬守を名乗ったため」に盛清と幸久が混同されている可能性があると思います。後で忍者として出浦対馬守幸久の項目を別に作成しようかと思います。盛清が忍者であったという出典等があれば提示をよろしくお願いいたします。

素晴らしい[編集]

やっぱり、忍者は忍者だと思いたい… アプリ会話2016年6月25日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

名前について[編集]

父の出浦対馬守(盛清と伝わる)と子の出浦昌相(幸久と伝わる)が同一人物と混同されている。 信長の野望の出浦盛清、戦国大戦の出浦守清によって忍者としての知名度が上がった状態で真田丸の出浦昌相が登場したためである。 系図について上述されているように、出浦幸久として伝わる出浦昌相がおり、その父が出浦盛清である。 忍者として逸話が本当であるか、盛清・昌相どちらに付与されるものかは別として、真田家での功績は出浦昌相として記載すべきと考えた。