ノート:六浦藩

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

六浦藩について横浜市唯一の藩、1万2千石の藩ですが、名称は江戸時代加賀百万石の金沢藩と同じでした。六浦藩と呼ばれるのは明治になってからですが、これは紛れもなく、両藩共金沢藩のため紛らわしいからです。一方、加賀百万石の金沢藩はというと加賀藩とも呼ばれていました。今回改名提案で六浦藩を金沢藩としたのはそのような事情からです。皆さんはどう思われますか。ご意見お待ちしています。--Roga246 2007年9月25日 (火) 02:37 (UTC)[返信]

(反対)Roga246さんのノートにも書き込みをさせて頂いたとおり、「金沢藩」への改名は問題があります。「その藩の藩庁がある金沢」とだけ聞いて何処を連想しますか?大半の人は「石川県金沢市」を連想するのではないでしょうか?
ところで、私の持っている文献を漁りましたが、横浜市金沢区にあった藩は「六浦藩(金沢藩)」とも、単に「金沢藩」とも記載されており、まちまちです。従って「金沢藩」でもまんざら違ってはいないでしょう。しかし、ネット検索(google、Yahoo!、goo)で「金沢藩」を検索すると、いずれもトップに出たのは「加賀藩」です。やはり加賀百万石の存在は大きいのです。
また、上記にRoga246さんが書かれている理由付けは、今ひとつ論点がよく分かりません。「藩」の公称(正式名称)というならば、明治初期の版籍奉還時には、加賀が「金沢藩」、武蔵金沢は「六浦藩」となっていますよね(各記事参照下さい)。そのような観点からすると、「金沢藩=加賀藩」という図式が成り立ちますね。であれば、Roga246さんが提案される「金沢藩」はあくまでも「六浦藩」の通称と言うことになります。よって現在のまま「六浦藩」で良いと思います。
確かにこのサイトの中にある記事には「薩摩藩」や「長州藩」、「土佐藩」のように通称がページ名となっているものもありますが(あ、加賀藩もその一つですね)、これは通称があまりにも有名なためにそのようになっているのだと思います。
どうもRoga246さんの改名提案は陣屋(藩庁)の存在した場所に拘泥されているような気がしてならないのですが。どうしても改名をと、仰るならば曖昧回避のためには「武蔵金沢藩」であるべきです(但し、再度申しますが、改名を肯定するわけではなく、私は現状のままで良いと思っています)。--Reggaeman 2007年9月25日 (火) 12:30 (UTC)[返信]
(反対)そもそもの呼称が正式化されたのは明治の版籍奉還以降。正式名称も現在の一般的な認識もともに金沢藩は加賀国のものを指すので。--Extrahitz 2007年9月25日 (火) 12:35 (UTC)[返信]

この藩の一覧で金沢藩ではなく加賀藩のところを参考に見てみてください。 --Roga246 2007年9月25日 (火) 13:36 (UTC)[返信]

???どうも仰っている主旨が理解できません。--Reggaeman 2007年9月25日 (火) 14:06 (UTC)[返信]
(反対寄りコメント)Googleの検索結果件数を比較してみましたが、「六浦藩」が一般呼称のようです。--BoB774 2007年9月25日 (火) 15:44 (UTC)[返信]
  1. Google検索 - 加賀藩 前田 -wikipedia - 約 78,500 件
  2. Google検索 - 金沢藩 前田 -wikipedia - 約 1,850 件
  3. Google検索 - 六浦藩 米倉 -wikipedia - 78 件
  4. Google検索 - 金沢藩 米倉 -武蔵金沢藩 -武州金沢藩 -wikipedia - 37 件
  5. Google検索 - "武蔵金沢藩" 米倉 -wikipedia - 19 件
  6. Google検索 - "武州金沢藩" 米倉 -wikipedia - 17 件

 武州金沢藩が一般的なようです。横浜市歴史博物館にはこうあります。

     --Roga246 2007年9月26日 (水) 09:40 (UTC) [返信]

なるほど神奈川県や横浜市などの官公庁等の機関では、「武州金沢藩」の名称を用いたものが多く見られますし、藩の公印にもその名称が使用されているのは確認しました。しかしだからといって、版籍奉還時の公称藩名が「六浦藩」となっている限りこの名称に違和感はありませんし、「金沢藩」の名称を用いた改名をどうしても行わなければならない必要性を感じません。同じ名称を持つ藩名は松山、吉田等々他にもいくらでもありますが、特に名称変更の議論もなされていません。現代に於いて藩が存在しない以上、上記(2007年9月25日 (火) 12:30付け私のコメント)の通り、通称となっている藩名もページ名となっているのですから、藩名変更に固執する必要性は全く無いように思います。記事の中で「藩主が用いた印には武州金沢藩と刻印されていたので、これが版籍奉還までの正式な名称である」とか言った一文があれば十分でしょう。
なお、外部リンクを貼り付ける場合、URLとページ名の間は、全角スペースではなく半角スペースを用いて下さい(上記、武州金沢藩の印へのリンクは訂正しておきました)。--Reggaeman 2007年9月26日 (水) 13:00 (UTC)[返信]

:いろいろと議論していただき有難うございました。訂正までしていただきすみませんでした。  --Roga246 2007年9月28日 (金) 04:14 (UTC)[返信]

  • 議論がまだ終わらず、改名反対の意見が多数にも関わらず、なぜ一方的に議論を打ち切って本文の記述はおろか、他のページの記述も変更されているのですか?手続きに重大な問題があると思います(本文は、一旦Undoします)。--しいたけ 2007年10月2日 (火) 09:39 (UTC)[返信]
(改名に反対)武州金沢藩、六浦藩いずれの名称も誤りではなく、またwikipedia:検証可能性を満たしていると思います。個人的には、上記Reggaemanさんの意見が妥当ではないかと思いましたので、意見表明をさせていただきます。--しいたけ 2007年10月2日 (火) 09:39 (UTC)[返信]
(コメント)赤リンクのままでは、記事として問題があると思うので、Roga246さんの編集された他の記事を再編集あるいはUndoしました。--けぃ 2007年10月2日 (火) 11:02 (UTC)(間違い訂正(汗)--けぃ 2007年10月2日 (火) 11:04 (UTC)[返信]
  • 確かに議論は終わっていませんが、改めた点は考慮すべきでした。神奈川県、横浜市の記述では数の多寡に関わらず、歴史的には版籍奉還まで武州金沢藩を公式なものとしています。それ以降は六浦藩としています。公式なものがあるのですから、私は武州金沢藩で行くべきであると思っています。  --Roga246 2007年10月3日 (水) 04:29 (UTC)[返信]
Roga246さんの「思い」は、理解いたしました。しかしながら、この改名提案は「薩摩藩は正式には鹿児島藩だから、鹿児島藩に改名しよう」という議論に等しいです。島津77万石は一般的に薩摩藩と呼ばれているので特に違和感なくページが形成されているのだと思います。BoB774さんが示された検索結果の通り、概ね「六浦藩」が一般的なのだと思います。どうも今回の改名提案は、一般論でなく個人的意見(感情論)が入っているように思えるのですが?
それと、もう一つ重大な事。改名提案の名称は「金沢藩」となっていますよね。なのに9月26日以降のRoga246さんの意見からは「武州金沢藩」に主張が変わっていますね。特に10月3日時点では「私は武州金沢藩で行くべきであると思っています」と明言されておられる。ご自身が十分な検証の上になされた改名提案とは思えません。これこそまさに、感情論で行き当たりばったりの提案としか思えない。提案をなされたご本人が主張を変えられたのならば、この改名提案自体、無効であり取り下げるべきではありませんか?また、しいたけさんのご指摘にあるように手続き問題を起こされるなど、この改名提案に対してRoga246さんの動きには問題が多いように思えます。--Reggaeman 2007年10月3日 (水) 11:57 (UTC)[返信]
>歴史的には版籍奉還まで武州金沢藩を公式なものとしています。それ以降は六浦藩としています。
(コメント)版籍奉還から廃藩置県までの期間は、六浦藩を公式なものとしています。なので、現状のままでも特に問題はないかと思うのですが・・・--けぃ 2007年10月3日 (水) 12:56 (UTC)[返信]

とあります。--Roga246 2007年10月4日 (木) 04:38 (UTC)[返信]

では、
とあります。
とすれば、Roga246さんは納得して頂けるということでしょうか?
おそらく納得出来ないと思います。それと同じ様に外部リンクを上げるだけでは他の意見者が武州金沢藩への改名に納得されないと思います。
また、神奈川県史という神奈川県の公式な書籍にて、「六浦藩」と使用されているので、改名は不要かと思いますが・・・(実際に該当書籍を見たわけでは無く、横浜市史については書籍内容を確認出来なかったので、断言はしません。誰か調べて頂けると幸いです。)--けぃ 2007年10月4日 (木) 05:44 (UTC)[返信]

しかし、横浜市の学芸員はこうもいっています。

皆さんは版籍奉還から廃藩置県までは六浦藩であったことは認めると思います。勝手に打ち切りご迷惑をかけましたが、ここはもう少し議論してはどうでしょうか。         --Roga246 2007年10月4日 (木) 08:20 (UTC)[返信]

藩という名称が公式に用いられたのは明治維新以降、1868年からです(参照)。版籍奉還は1869年、廃藩置県は1871年。ということは、「武州金沢藩」の名称よりも、「六浦藩」の名称が公式であった期間が長いことになります。江戸時代を通じては恐らく「米倉家中」などと呼称していたでしょう。で、あれば尚更改名の必要なしではないですか?ところで、「金沢藩」→「武州金沢藩」への変更問題は議題にならずですか?--Reggaeman 2007年10月4日 (木) 08:49 (UTC)[返信]
大勢が決している中で、これ以上議論をするのは無駄だと思いますが?もっとも、「六浦藩」という名称自体が存在しなかったとかいう話でも出てくれば別でしょうけど。--Reggaeman 2007年10月5日 (金) 12:59 (UTC)[返信]
  • 江戸期には武州金沢のことを「かねさわ」と呼んでいたみたいです。出典は「歴史読本」2007年6月号330頁にあります。ただし、武州でなく武蔵となっています。また,「歴史読本」臨時増刊2000年6月号にもやはり、「かねざわ」と195頁にあります。ただし、出だしは武蔵六浦とありますが、十一代昌言のとき、六浦藩と改称し廃藩置県を迎えた。とあります。また、「別冊歴史読本」1996年徳川三百藩最後の藩主人物事典に武蔵金沢(かなざわ)「六浦」藩とありますが、版籍奉還により六浦藩に改称とあります。304頁。--Roga246 2007年10月5日 (金) 17:11 (UTC)[返信]

BoB774さんの「六浦藩 米倉」検索の内容をみてください。良く見ると武蔵金沢藩、武州金沢藩(六浦藩)とあり中には誤りもあるようです。中にはどちらでもいい、と言う趣旨もあります。港南区に至っては六浦藩としていますが、どちらかというと六浦藩は検索にもかかわらず、あります。ということは版籍奉還以前、以後もまとめてこの場合「六浦藩」としているのではないでしょうか。 何度もいいますが、版籍奉還により、以降は「六浦藩」が正式名称となりました。ご存知のとうり、「検索」は後の「古い」検索されたものほど一般に、あまり信用度がなくなるものです。それを回避するものがあるみたいですが。         --Roga246 2007年10月6日 (土) 19:58 (UTC)[返信]

  • 続きで何度もすみません。「六浦藩 米倉」全部目を通しましたが、原因と思われる事が判明しました。それはズバリ参考資料にこのWikipedia「六浦藩」を使っているものが多いからです。だから「六浦藩」が多い(例外も勿論ありますが)のです。--Roga246 2007年10月6日 (土) 20:53 (UTC)[返信]
”Wikipedia「六浦藩」を使っているものが多い”と言われますが、78件中の何件でしょうか?それはともかく、藩についての検索をしているとよくヒットする江戸三百藩HTML便覧などはメジャーなサイトですが「六浦藩(金沢藩)」としていますし、 Wikipediaに六浦藩のページが出来る以前から存在します。金沢区の郷土研究を行っている楠山永雄氏もWikipedia以前にNO.49六浦藩の大名屋敷を掲載しています。因みにgoogleで「六浦藩」と「武州金沢藩」を検索してみましたが、「六浦藩」は24ページ、「武州金沢藩」は10ページでしたし、「六浦藩」の検索結果をランダムに24ページ目まで見ましたが、Wikipediaに絡むものは各検索結果ページでせいぜい10個中2~3個と言ったところでした。このページが作成される以前から「六浦藩」の名称を使用したものが多く存在し、必ずしもWikipediaを元に「六浦藩」の名称が一般化されたものとは思えません。「六浦藩」も公式名称の一つである限り改名の必要は全くなく大勢は決しているのに、何故こうまで改名に固執されるのか私には理解できません。私はこの辺で議論を打ち切りたいと思います。--Reggaeman 2007年10月7日 (日) 12:33 (UTC)[返信]
  • Reggaeman様 全273件中「金沢藩 米倉」は52件、Wikipediaは15件、金沢藩(六浦藩)23件で、「六浦藩 米倉」は56件、Wikipediaは13件、六浦藩(金沢藩)23件でしたが、半分程のところで、Googleでも記事が重複するようになり、後は前半と同じため打ち止めにしました。

本日、横浜市より、私が問い合わせた回答が返信されましたので、お読みいただければ、幸いです。

御質問のありました標記について次のとおり回答します。

         様


 「市民からの提案」をお寄せいただきありがとうございました。

 御提案のありました件について、次のとおり回答します。


「藩」という概念は、領主とその家臣、及び領地とそこに居住する人々(領民)を一体化した概念として、おおむね江戸時代後期より使用されるようになったものであり、当該期における公式な団体名と使用されたものではありません(正式には「OO家中」・米倉氏とその家臣については、「米倉丹後守家中」となります)。したがって、江戸時代の大名をOO藩と呼称とするのは、説明上の便宜的な用語になります。神奈川県史が明治2年以前の「米倉丹後守家中」を、「六浦藩」として概念化しているのも、叙述の必要上用いたものであり、武州金沢藩・六浦藩に関するまとまった資料群が、藩主米倉家の文書の他、まとまった資料群が発見されていない研究段階のものであったと考えております。

近年、幕末から明治初年にかけて同藩の要職を歴任していた同藩藩士萩原家文書が横浜市へ寄贈され、横浜市歴史博物館において同文書を主対象とした企画展「幕未動乱を生きた武士一武州金沢藩士・萩原唯右衛門則嘉の生涯一」(平成17年4月9日~5月15日開催)が開催され、関連の図録・史料集が刊行されています。

同図録5頁所収の印鑑の印影には、「武州金沢藩印」の文字が記されています。また、その他の資料には「金沢御陣屋」(同上図録12頁所収の米倉丹後守絵図)や明治4年「御道具類御鍵類日記其外書類調帳」(構浜市歴史博物館『武州金沢藩(六浦藩)関係史料集1』、15頁~)には安政元年~慶応2年にいたる「金沢御家中勤書」が存在と記されているように、米倉氏とその家中においては、陣屋の所在地は「金沢」と認識されていたことが確認できます。

以上のように、明治2年に政府の命により「六浦藩」と藩名を改称する以前については、当時の藩主・藩士たちの認識をふまえて「武州金沢藩」という名称を使用するべきであると考えます


以上のとおりですので、御理解をお願いいたします。


平成19年 月 日

横浜市教育委員会事務局 文化財課長 

(文化財課)

(市民からの提案 19-300776)--Roga246 2007年10月11日 (木) 03:42 (UTC)[返信]

この回答からすると、
  • 版籍奉還以前を扱う場合に限り、「武州金沢藩」とすべき
  • 版籍奉還以降を扱う場合は、「六浦藩」とすべき
ということかと思われます。
しかし、Wikipediaにある各藩の項目は、江戸末期~版籍奉還~廃藩置県まで全てを対象としているので、どちらの名称を使っても良いということになります。
さらに、「武州金沢藩」はあくまで通称とも記述されているので、積極的に改名しようという結果にはならないと思われます。--けぃ 2007年10月11日 (木) 05:08 (UTC)[返信]
Roga246さん、わざわざ横浜市教委までのご質問ご苦労様です。どういった内容のご質問を提示されたのかは知りませんが、恐らく同様の質問を東京大学山本博文博士などになされても、同じような類のご返答があろうかと思います。前にも申しました「薩摩藩」を例に取りますと、Wikipediaではこの名前で定着しています。ある人が改名提案を思いつき山本博士に「島津77万石は正しくは薩摩藩か鹿児島藩か」との質問を提出すると「正式な名称は鹿児島藩である」とご返答されると思います。だからといってこれが仮に提案された改名の一助になるものとは思えないのです。ましてや横浜市教委からのご返答の中に「明治2年に政府の命により「六浦藩」と藩名を改称する」との記載があるように「六浦藩」は公称であることは覆らない事実です。そういったことからしてもわざわざ市教委にご質問された意味合いがよく分かりません。Wikipediaは、皆で作るものでしょう?個人的な思い入れや見解を押し通す場では無いことはご認識と思います。--Reggaeman 2007年10月11日 (木) 13:44 (UTC)[返信]
  • みなさんの貴重なご意見有難うございました。私が問い合わせたのは、江戸時代どのように呼んでいたのか。ということとその根拠です。Reggaemanさんが仰るとおり、皆さんが作る百科事典ですので、ある一定の議論は必要ですが、議論に固執しすぎたと思っています。これからも宜しくお願いいたします。--Roga246 2007年10月12日 (金) 04:07 (UTC)[返信]

「改名せず」で議論終了とみなし、テンプレート削除およびWikipedia:改名提案に報告を致しました。(放置されているので代理として処理しておきます。)--しいたけ 2007年10月19日 (金) 18:43 (UTC)[返信]

2008年3月13日の差し戻しについて[編集]

2008年3月13日 (木) 23:02版における編集につきましては、冒頭文の最初に「かつて存在した」ことが判ることが重要と判断したため差し戻しました(冒頭文の流れとして、定義→所在地→参考として現在の地理関係 という流れが最も理解に寄与できると思料いたします)。なお、要約欄の記述を間違えましたので訂正します。

  • 『重大な誤解を生じるおそれがある記述を削除』→『重大な誤解を生じるおそれがあるため記述を復帰

--しいたけ 2008年3月13日 (木) 14:11 (UTC)[返信]