ノート:世界美術大全集西洋編

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2次資料の必要性[編集]

「2次資料」の必要性が1つの焦点となっております(この記事の加筆修正をどうするかにも大きく影響を与えます)ので、それに関する疑問を提示したいと思います。一般論ではなく、書籍そのもの(1次資料)が項目・記事の対象となっているケース(本項目と同じ)を対象として質問いたします。ただし、通常の1次資料の問題と比較しながら考えてみたいと思います。

問題意識は、次のとおりです。

実物に当たれば、誰でも客観的に確認できるその本そのもの(1次資料)に関する事項(評価ではなく事実)についても、いちいち2次資料が必要なのか?

具体的に考えないと理解しにくいので、具体例を挙げます。本項目と同様に、1次資料そのものが項目の対象となっている、ということをどうかお忘れにならずに、お読みください。

  • 1. 「その本(自分自身が)がすばらしい本である、類書のうち世の中で最高だ」と書いてある部分

このような明らかに評価にわたる項目は、「自画自賛」だけでは不足で、他の2次的な資料が必要だ、ということは理解できます。ただし、「2次資料」とは、物理的に全く切り離されている必要はなくて、例えば文学作品で、同じ本の中に掲載されている、執筆者と異なる人の手による「解説」は2次資料として使えるはずです。

さて、では、以下の各項目についてはどうでしょうか?

  • 2. 発行年月日、編者、著者、出版社など通常「奥付」に記載されている事項
  • 3. 章のタイトル、章ごとの執筆者など目次に記載されている事項
  • 4. 奥付・目次以外に記載されている事項
    • 例1)何ページに「○○○○」ということが記載されていると引用すること
    • 例2)何ページに「○○○○」という図版が掲載されていると記載すること
    • 例3)奥付・目次には記載されていない編集者・執筆者等の(編集・執筆当時の)肩書き・役職(奥付・目次には記載されておらず、別のページにまとめて記載されているとか、執筆文章のタイトルなどの部分に記載されている例も多い)
  • 5. 実物を見さえすればわかるこれら以外の事項。例えば、ハードカバーなのかソフトカバーなのかということ、函入りかそうでないかということ、掲載されている図版の(全体の)数(連番の場合には最後の図版の番号を見ればわかるとか、カラー図版と白黒図版で連番が異なる場合には、その2つの最後の番号を合計したらわかるとか、実際に自分で数えればわかるとか。最後の例は、「この書籍には○点の図版が掲載されている。そのうち○点がルノアールの図版である」という記載が、2次資料を必要とするかどうか、必要だとしてどこまで必要とするか、という問題)。

2.3.4.5.それぞれについて、通常の項目で資料に言及する場合には、2次資料は必要とされない(例えば、参考文献等の記載において、2次資料が要求されることはない)ことと比較しつつ、お考えをお聞かせください。なお、私の考えは、1次資料そのものが記事項目の対象であるような場合でも、これらの2.3.4.5.については2次資料がなくとも検証可能性はある(その1次資料そのものを見れば誰でも確認できる)ので、2次資料は必要ないのではないか(現実には、2次資料はなかなか存在せず(たまたま誰かが該当部分を記載した2次資料を作成しているかどうかにかかっており、一般論として存在する可能性は低い)、2次資料を求めることは要するに記載するな、ということと同じになりかねない)、というものです。

このあたりは、「独自研究」と関わる可能性もあるかと思います。例えば、上記第4点・第5点の例として、1次資料(対象そのもの)に記載されている何かについて「数える」ということも「独自研究」に該当するのでしょうか? または「見ればわかる」(何ページに記載されているか、など)ということも「独自研究」に該当するのでしょうか? いずれも私はそうは思いません。というのは、客観的・中立的な(誰が数えても変わりがない、誰が見ても変わりない)ものであり、かつ検証可能性が明確に存在する(その本を見て自分で数えてみればいい、または見てみればいい)からです。いかがでしょうか?

これに関連して、(私の考えとは異なり)2次資料を必要だと結論した場合、「たまたま」にかかっているということがもたらす変な結論の例を書きますと、Amazonで本全集を検索すると、27巻については「カラー210点モノクロ215点で構成」と記載されており、28巻については「200点以上のカラー作品」と記載されているので、この2冊については「2次資料あり」で図版数を本文に記載することができる、しかし、26巻についてはAmazonの紹介では図版数の記載がないため、「2次資料見つからず」で記載することができない。いずれの巻も、現物に当たれば図版数が正しいか間違っているかを確認できるのに(検証可能性あり)、「2次資料」がたまたま存在しかつまた見つかるかどうかで、結論に全く違いがでる、ということになります。個人的には、なかなか納得できない結論です。

最後にもう1点です。

  • 6. 客観的な事実に関する項目について、2次資料の記載が間違っており、そのことが1次資料によってわかる場合

この場合は、1次資料にもとづく情報を優先してもいいのでしょうか? それとも、1次資料を使うことによっては、2次資料が間違っているという指摘すらできないのでしょうか? 私は、1次資料を優先すべきであり、しかも1次資料にもとづき間違いを指摘したり、訂正することができると考えます。

なお、これは机上の空論をしているつもりではなく、具体的に本項目にも関係します。ややこしい例ですが、具体例を挙げると、実は前出のAmazonの27巻についての「カラー210点モノクロ215点で構成」ですが、これは間違いです。せっかくこの記事に含めていた図版リストを削除されてしまったので(笑)、主張の根拠を示せませんが、本全集の27巻そのものを見れば間違いであることが誰でもわかります(どうして間違えているのかはわかりませんが)。この場合、「2次資料の間違いを1次資料では訂正できない」とすると、もともとAmazonのページを引いて「カラー210点モノクロ215点」との記載が本項目にあった場合、これを「間違いだ」と正に記載している2次資料を発見できなければ(例えば、次の数字はなおさら間違いですが「カラー250点モノクロ250点」という2次資料しか発見できなかった場合には、Wikipediaでは2次資料同士でどちらが正しいかの独自の判断はできないと思いますので、両方を併記することまでしかできないのではないかと思います)、その部分を削除することができないという結論になりますが、1次資料を見る限り明らかに間違っている情報なのにその結論でよろしいのでしょうか? そして、これに関するもう1つの例は、「編」「編集」「責任編集」などの違いですが、少々長くなりすぎたので、この例については後日書こうかと思います。

以上の点をどう考えるかは、この記事に大きく影響します。氷鷺さんにはもちろんご意見いただきたいのですが、削除依頼に参加なさっている(なさった)方はもちろん、そうでなくても結構ですので、ご意見等ございましたら、よろしくお願いいたします。--20世紀(前半)美術会話2012年7月1日 (日) 07:28 (UTC)[返信]


もしかしたら上ですでに議論済みなのかもしれませんが、初めて記事を拝見しての感想です:

  • 書誌情報はすでに十分のように思いました。専門家ですらよほどの理由がないかぎり出版社のデータを転載する程度で、造本や頁数についてまで別の文献を引用する必要は普通はありません。
  • 参照されているかどうかにも別に出典など要らないと思いますが、どうしてもというのであれば、いくつかの美術史の教科書や入門書で参照するよう指示があることを書けばいいんじゃないでしょうか。たとえば若桑みどり『イメージを読む』には、基本資料としてこの全集が挙げられています。
  • この項目自体は、立てておいてもよいと私は思います。この美術全集は日本の美術史学会の総力を結集したもので、図版・解説ともに世界的にもたいへん高い水準にあります。しかも解説の執筆すべてが日本人によるオリジナル記事というのは驚くべきことで、現在でも欧米を除いてこのような西洋美術の全集が出版できる国はないと思います。そういう書物は立項に値すると思います。
  • ただ現在のこの記事は、造本情報は詳しいのですが、そうした「日本の(世界の)美術全集の歴史における特異性」については全く言及がありません。凄さを説明するのであれば、日本の他の全集・画集シリーズと比べて何がどう上回っているのか、世界的にはどうなのか、を説明する必要があります。これは出典が必要です。出版当時の新聞記事や美術専門誌に出ていた書評があると便利なんだけど。


  • 現在の版で「刊行時の反響」となっている部分は、正直、必要かどうか分かりませんが、ここまで議論が積み重ねられているので、それを尊重して残しています。

--Humanitas会話2012年12月18日 (火) 12:48 (UTC)[返信]

  • 個人的には議論を重ねてこられた方々の判断を待ちたいと思いましたが、頭痛さんが代案を示さないまま削除を繰り返しているので、元の記入者の方がご異論あるようでしたら、この部分の要・不要について議論を呼びかけてみてはどうでしょうか。

--Humanitas会話2012年12月18日 (火) 13:03 (UTC)[返信]

    • 代案がどうこうという問題ではありません。引用に対して本文にあたる「主」の部分がなく著作権侵害にあたる可能性もあります。よくわからないのであればこれに関する編集を行わないでください。--頭痛会話2012年12月18日 (火) 13:06 (UTC)[返信]