ノート:一里塚

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

中国起源説[編集]

日本の一里塚が中国起源であるとの資料が無いので、そう書かれた記述を修正しました。--125.30.93.82 2011年12月29日 (木) 06:31 (UTC)[返信]

[編集]

冒頭で槐が植えられていたとの記載がありますが、後の記載には出てこず、また出典にも出てきません。榎の誤記かと思われるので、訂正すべきと思います。--飛龍家木偶 2012年5月29日 (火) 23:29 (UTC)

異論が出なかったので修正しました。--飛龍家木偶 2012年6月19日 (火) 11:20 (UTC)

一休の歌[編集]

室町時代中期にも一里塚があった論拠として一休の歌が出されていますが、「門松は冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」の歌の出典は平賀源内著の「風来山人」に拠るもので、それより古いとも言われる別のバージョンの「門松は冥途の旅の一里塚 馬駕籠もなく泊り屋もなし」は「一休蜷川狂歌問答」に拠りどちらも江戸時代のものです。一休研究ではこれらの書の歌は、後世に一休作として仮託された歌の可能性が高いと考えられており、実際に同じ書に収録されている一休の歌には「魚」の読みが「うお」ではなく江戸時代に成立した「さかな」の読みとなっていたり、江戸時代に整備されたはずの矢橋船が歌に詠まれていたりします。

以上から、一休の歌に一里塚が出てくるのは、室町時代中期にも一里塚があったとする論拠とはならず、むしろ一休作とされている歌が一里塚が整備された江戸時代に作られた論拠となるべきものであると思われ、この部分は削った方が良いと思います。--2402:6B00:56C7:E00:A1D4:D67:10FF:B095 2024年1月30日 (火) 13:40 (UTC)[返信]