ノート:マグダラのマリア

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「マグダラのマリア娼婦説」とは?[編集]

「マグダラのマリアを娼婦と仮定する浅ましい頭の悪い人間に嫌悪」するBbt888sさんに同感します。 マグダラのマリアについて「娼婦であったとする説もある」との記述がインターネット上で散見されます。しかし、その「説」たる原典が見付かっていません。 どなたか見付けたらお知らせください。カトリック世界でマグダラのマリアは「罪の女」(the Sinner)と呼ばれたり、(悔悛した)娼婦の守護聖人であったり、「肉の欲に溺れていた」などとの汚名を着せられたりはしていますが、聖女自身が娼婦の出自であったという「説」はいまだ見受けません。日本だけにある偏見なのでしょうか? Shinobar 2006年2月28日 (火) 08:39 (UTC)[返信]

ハリウッド映画にあるのだから世界中の偏見でしょう。 61.210.161.11 2006年2月28日 (火) 10:30 (UTC)[返信]
どの映画でしょうか?最近の『パッション』では姦通の女とされていましたが、「姦通」は既婚女性が夫以外の男性と関係を持つことであって、娼婦が「姦通」の罪で死刑になることはあり得ません。まあ、マダムが娼婦を副業にするならあり得ますけど。Shinobar 2006年3月1日 (水) 03:04 (UTC)[返信]
「最後の誘惑」、「ダ・ヴィンチ・コード」 61.210.161.11 2006年3月1日 (水) 10:59 (UTC)[返信]
なるほど、「ダ・ヴィンチ・コード」でソフィーの「あの娼婦の?」とのセリフがありますね。また、Magdalene.orgのFAQの中に「マグダラのマリアは娼婦なの?」という項目があったので、そういう誤解は米国にも広くあるようです。Shinobar 2006年3月1日 (水) 13:00 (UTC)[返信]

イエスとの婚姻説[編集]

マグダラのマリアはイエスと婚姻していたとする研究者もいる。」とするのは、やや尚早な気がします。英国のライターたちが『レンヌ=ル=シャトーの謎』で提出し、マーガレット・スターバードがこれを受けて『マグダラのマリアと聖杯』で主張していますが、研究者たちの間でどれほど話題になっているかというと、ちょっと疑問です。Shinobar 2006年3月18日 (土) 05:07 (UTC)[返信]

「一部の」研究者もいる、と編集しました。Una fratin 2006年3月18日 (土) 07:54 (UTC)[返信]

この説は、特に現代に至って現れたものでもなく、キリスト教の中でも古くからあったようですね、外典の福音書などによると。もちろん、「正統派」の教派はこんな主張は否定しますけれど。ですから「一部の」でよいでしょう。紫苑 2006年3月28日 (火) 17:22 (UTC)[返信]

ウィキペディアの性格からして、定説でないものは出典を明らかにして提示すべきでしょう。Shinobar 2006年4月6日 (木) 21:31 (UTC)[返信]
史的イエスが定説を見ないくらいだから、事実結婚していたかどうかは確かめる術はない。問題は、そういう伝承があったか。文化としてある程度の範囲の人々に信じられているか、信じられていたことがあるか。最近の一部著作にそれを主張するものがあるが、その言うところは、「婚姻の伝承は存在したが、隠蔽されてきた。そのため暗喩や象徴の形で残った。」というもの。暗喩や象徴ならばどうでも解釈できるので、そういう伝承があったことの証明にはならない。ただひとつ明示的なのは、外典のうちのフィリポによる福音書のうちの一節である。
三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリアと彼女の姉妹と彼の伴侶と呼ばれていたマグダレネーであった。(§32前半)
しかしフィリポ福音書自身の評価に疑問がある。というのはトマスによる福音書と違って、語録とも福音書とも体裁が整っておらず、上記一文も前後関係無く突然出てくる。単にヨハネによる福音書19:25の注解とも見える。「伴侶」も婚姻を意味するかどうか判然としない。はっきりしているのは、彼女がイエスの女性の弟子たちの中で格別の待遇を受けていたということ。夫婦と思われていたかどうかは分からない。Shinobar 2006年4月6日 (木) 22:58 (UTC)[返信]

特定小説からの出典[編集]

  • 上記イエス婚姻説とも関連しますが、フィクション、ノンフクション問わず一部の小説(具体的には『レンヌ=ル=シャトーの謎』、『ダ・ヴィンチ・コード』など)にのみもとづいたものを「説」として取り上げるのはどうかと思います。通説でないものは出典を明らかにするのは当然として、あまり特定小説に頼るのはその宣伝みたいで感心しません。Shinobar
  • スターバードの『マグダラのマリアと聖杯』も、学説というより「読みもの」と私は考えています。Shinobar 2006年3月27日 (月) 02:11 (UTC)[返信]
  • 同感です。『ダ・ヴィンチ・コード』公開以来、キリスト教関係の記事で、この手の映画や通俗小説が出所と思われる典拠不明の記述が増えたようにも感じています。ついでながら『ダ・ヴィンチ・コード』ではこう描かれているみたいな記述も不要だと思っています。そもそもナグ・ハマディ写本が作られたのが五世紀、トマスによる福音書が書かれた時期が二世紀中ごろ、フィリポによる福音書やマリアによる福音書については成立時期不明といわれている中で、いったいどこのどういう学者(なり教派なり)が「ナグ・ハマディ写本」の記述を元に「マグダラのマリアの地位」(?)をどう見直そうとしているのか是非教えていただきたいものだと思っています。--222.225.239.84 2007年12月28日 (金) 01:43 (UTC)[返信]

使徒への使徒[編集]

携香女[編集]

  • カトリックでは長くマグダラのマリアとベタニアのマリアを同一視してきました。マグダラのマリアを東方正教会で「携香女」と呼ぶのは単に墓参りに香油(あるいは香料)を持参したからで、ベタニアのマリアとの混同ではないんですよね? どなたかお教えいただけたら。Shinobar 2006年3月27日 (月) 12:04 (UTC)[返信]
  • 大阪ハリストス教会によれば、墓参りに香料を携えた女性たちを指すそうです。ベタニアのマリアはこの中には含まれていないようです。Shinobar 2006年3月29日 (水) 08:42 (UTC)[返信]

教義か伝承か[編集]

  • カトリック教会の「教義 or 伝承」ではベタニアに住むマリアと同一人物としていたことがあった。の部分についてです。591年グレゴリウス1世 (ローマ教皇)がマグダラのマリアとベタニアのマリア、罪深い女の3人を同一人物としています。また、1969年までカトリック教会は聖マグダラのマリアの日(7月22日)には『ルカによる福音書』の「罪深い女」のところを朗読するよう推奨しています。これは「教義」とは言えないでしょうか? (「罪の女」参照)Shinobar 2006年4月12日 (水) 10:05 (UTC)[返信]

利用者の会話[編集]

  • お気持はわかりますが、マグダラのマリアがキリストの妻であるだとか、イエスの実子だとかはかなり根拠の薄い主張のようです。マグダラのマリアが娼婦だったという言い伝えに根拠が薄いのと同様です。こういうものを一方的に展開なさる方の知性が、同様に根拠は薄いけれども広く行き渡った言い伝え(「娼婦説」?)を素朴に信じている人々の知性よりもマシだとは私には思えませんでした。あと細かいことですが、ご自分の主張が現に存在した(今もしている)「娼婦」という職業を侮辱なさっていることに気づいてますか?--222.225.239.84 2007年12月28日 (金) 02:05 (UTC)[返信]
  • 222.225.239.84様、Bbt888sです。メッセージに今気がつきました。遅くなってすいませんでした。そうですね。でも、私は娼婦という職業を侮辱していませんよ。それは、的を得ていません。普通の解釈で考えていただきたいのが、あえて社会通念上、良くないと言われている職種(売春は法憲で禁止されているのをご存じでしょうか?風俗と娼婦は違います。また、娼婦という職種は無いということから、あなたのかん違いです。)を、マグダラのマリアという古代の女性に、不名誉な侮辱をしていただきたくないという私個人のコメントです。そこを考えてからあなたはお話されるべきであり、皆様のコメントを無視して冒頭に自分のご意見を書き連ねるとは不届き千万。いささか、厳しい言葉かもしれませんが、よく場所をお考えになられてください。そのために、ノートに書き込んであるのです。私は本文に触れていないことを確認してみてくださいね。--Bbt888s 2008年2月5日 (火) 18:08 (UTC)[返信]
    • 自己宣伝だけは偉そうに冒頭に掲げておいて、他人の意見がそこにつけられると「場所を考えろ」とは笑止千万。「場所を考える」のはあなたの方です。売春は憲法で禁止されているというが、どこの国の憲法の第何条か?「娼婦という職業がない」などと一体誰が言っているのか?「マグダラのマリアという古代の女性に、不名誉な侮辱をしていただきたくない」という個人的な感情は、ご自分のブログなり2chなり、どこか別のところで表明されてはいかがか?--76.24.19.164 2008年6月2日 (月) 01:54 (UTC)[返信]