ノート:プロメテ - 火の詩

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日本語の題名について[編集]

「焔の詩」という訳題はあまりお目にかかったことがないように思いますが、どんなものでしょうか。個人的には「火の詩」(ひのうた)というのが気に入っていますが。(神聖な詩(うた)、恍惚の詩(うた)ともそろうし。)202.228.203.34 2006年4月3日 (月) 12:44 (UTC)[返信]

一般的には「火の詩」(ひのし)といいます。別名「プロメテ」。「神聖な詩(し)」、「法悦の詩(し)」も同様です。改めて訳したのでそうなったのでしょう。余り混乱させない方が良かろうかと思います。--195.93.60.104 2006年12月22日 (金) 16:09 (UTC)[返信]

分節して見やすく改行を追加しました。--Uraios 2007年2月12日 (月) 18:53 (UTC)[返信]

項目名について[編集]

根本的な疑問なのですが、この曲は果たして「交響曲」なのでしょうか? 英語版でもフランス語版でも交響曲として扱われていないのですが。「プロメテ - 火の詩」を項目名にしておいた方が良くありませんか?--Uraios 2007年2月12日 (月) 18:53 (UTC)[返信]

  • 「焔の歌」→「火の詩」で構いません(「炎」としたかったのですが、ミスったのです)。
  • カテゴリとしては交響曲です。作曲者自身がそのように類別しているのです。英語版や仏語版は、慣習的な(交響詩とする)分類にしたがっているにすぎません。もし本作が「交響曲らしくない」という理由だけで副題を記事名にしなければならないならば、ショスタコーヴィチの交響曲第2番・第3番、第13番、第14番なども同様に、軒並み「10月革命に寄す」「メーデー」「バビ・ヤール」「死者の歌」が記事名にならなければならないでしょう(実は、「プロメテ」という副題ないしは愛称を記事名にしなかったのは、それまでに自分の立てた「失われた小銭への怒り」や「ないしょの手紙」という記事名がどうかと議論されたため、そのようなトラブルを繰り返したくなかったからでした)。参考までに、この辺もご覧下さい。[1][2][3]--間久部緑郎 2007年2月14日 (水) 14:42 (UTC)[返信]
「プロメテ - 火の詩」は本当に「副題」なのですか? 「交響曲第5番」の方が一種の副題ということはありませんか? それも疑問なのです。南極交響曲田園交響曲の例もありますし(これらは確かに交響曲ですが)。--Uraios 2007年2月14日 (水) 15:14 (UTC)[返信]
ドーヴァーのスコアや泰流社のスクリャービン伝にざっと目を通しました。急いで瞥見した限りでは、この曲が交響曲であると確かにスクリャービンが命名したという部分を見つけることは出来ませんでしたし、厳密に言うなら、(「告別」「運命」「合唱」「革命」のケースと違って)「プロメテ~」は題名の一部ということになるのでしょう。とはいえ、こういう言い方はずるいようですが、専門的にこの作品は交響曲として扱われており、たとえば春秋社のピアノ曲集の巻末に載っている作品一覧でも、交響曲として扱われているのです(もっとも番号なしではありますが)。と書いたところで、ちょうどいい反論材料がありましたので、ご覧下さい。英語版で新たに立った「法悦の詩」の記事名は、「交響曲第4番_(スクリャービン)」となっています。[4]←これです(尤も、これとて「法悦の詩」に改名されないという保証はありませんが)。
ところでヴォーン=ウィリアムズを引き合いに出しておられますが、これは例外中の例外というべきケースでしょう。ことによると、交響詩(および標題交響曲)の「標題」と、純粋器楽の「表題」(副題・愛称・通称)をごっちゃにしているのではありませんか?この調子で言ったら、「冗談」「月光」「英雄」「子犬」「悲愴」こそがメインで、「弦楽四重奏曲」「交響曲」「ピアノソナタ」「ポロネーズ」「ワルツ」…がサブ(添え物)ということになりかねません。--間久部緑郎 2007年2月14日 (水) 16:31 (UTC)[返信]
スクリャービンの書いた5曲目の交響曲というのは間違いない事実なのでしょうが、本人が「交響曲第5番」とタイトル付けしたという典拠はありますでしょうか?私の手元にある文献(吉松隆:ポスト・マーラーのシンフォニストたち)によれば、そもそもスクリャービン自身は(4番=法悦、5番=プロメテどちらも)タイトルには「交響曲」とさえ付けていないようなのですが。ただし、日本国内で「交響曲第5番」と見なされることは多いので、検証可能性およびリファレンスとしての機能を考えると交響曲第5番という記事タイトルが絶対的に不可であるとは考えませんが。--きたじま/あかみ 2007年3月6日 (火) 17:20 (UTC)[返信]
スクリャービンに詳しい何人かの音楽ライターに訊いてみたところ、「『火の詩』はスクリャービンの5番目の交響曲」で間違えなさそうです。ただし、「火の詩」を「交響曲第5番」とするのは100%間違えではないが、自分はその表記はしないと異口同音におっしゃってました。マーラーの「大地の歌」とか、リストの「ファウスト」交響曲、チャイコフスキーの「マンフレート」交響曲、ツェムリンスキの「抒情交響曲」、スークの「アスラエル」交響曲など、前例ならいくらでもありますよね。私には、この曲を「交響曲第5番」と表記しないと気のすまない勢力が、何故次々と沸いてくるのか理解できないのですが。「交響曲」の概念の多様化が定着した20世紀以降の作品では、「標題つき」交響曲と「標題交響曲」は明確に区分するべきかと。--以上の署名のないコメントは、218.231.167.142会話投稿記録)さんが 2007年3月24日 (土) 09:49 (UTC) に投稿したものです。[返信]
私はスクリャービンがこの曲を、本当に交響曲のつもりで作曲したのかさえ疑っていたのですが、それは思い過ごしだったようです。なぜヴォーン・ウィリアムズの交響曲が例外中の例外で、スクリャービンがそうでないのかはよくわかりませんが、ベルリオーズやヒンデミットの交響曲と違って、一応(慣習的ではあっても)番号のついた交響曲であるならば、現在の項目名も(異論の余地は多々あるにせよ)許容範囲なのでしょう。--Uraios 2007年3月26日 (月) 14:03 (UTC)[返信]

音楽之友社の名曲解説全集では初版から代々交響曲として扱われています。他の書籍もしかりです。--195.93.60.104 2007年5月13日 (日) 21:25 (UTC)[返信]

多少疑問があっても項目名として間違っていないということであれば、議論の進展もありませんので、この件は打ち切りとします。--Uraios 2007年8月4日 (土) 12:57 (UTC)[返信]