ノート:ブラゴヴェシチェンスク

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

義和団騒乱について[編集]

>義和団事変に際し、1900年7月に義和団がブラゴヴェシチェンスクに2週間にわたり立てこもった。ロシア軍は市内のすべての中国人をアムール川対岸に追いやる決定を下し、その際に約3,000人が虐殺されたと言われる。

現在、本文に上のように書かれていますが、史実でしょうか。当時ブラゴヴェシチェンスクに留学していた石光真清の手記(『曠野の花』(中公文庫))には、

7月13日、ロシア汽船ミハイル号がアイグン付近で清兵に突如停船を命じられる。アムール州軍務知事が直ちに清国側に抗議。
同14日、ブラゴヴェシチェンスクは、清国人の避難民が次第に増している以外は平常通り。
同15日、州軍務知事がアムール川の渡航禁止令を公布。午後六時、清国側から市街に約一時間ほど砲撃。ロシア側も反撃。在留清国人は支那街に押し込まれる。
同16日早朝、清国人約三千を河岸に追いたて虐殺。
同21日、ロシア軍が清国領に上陸。

というように記述されているのですが。--愛国の歌人 2008年7月18日 (金) 18:21 (UTC)[返信]


愛国の歌人さんご指摘の点は、史実ではないと思われます。ブラゴヴェシチェンスクに義和団が立てこもった、という趣旨の記述は、英語版・ロシア語版のウィキペディアでのブラゴヴェシチェンスクにはなく、私が参照したロシア側のアムール地方の歴史 Граница великой державы 150 лет Амурской области 1858-2008 (Красноярск, Изд-во Platina, 2008)にも載っていません。この歴史書が、民間中国人の殺戮に触れないなど、かなりロシア側に偏った内容であるにもかかわらず、こうした趣旨の記述がないことは、義和団が立てこもった、ということの真実性を疑わせるものだと考えます。この情報は、最初に「ブラゴヴェシチェンスク」の項目を作られた利用者Islandさんが特に情報源を示さずに書き込み、そのままになってきた点ですので、Islandさんに情報源を伺いたいところです。Islandさんは、コーカサス・旧ソ連関係を中心にWikipediaで現在も活躍されているようですので、ご返答いただければ有難いところですが、そうでなければもう少し資料を参照した上で記述を変更するのが良いのではないでしょうか。--お山の大将 2009年10月28日 (水) 08:40 (UTC)[返信]