ノート:スワンプマン

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スワンプマンは知識や記憶を持つか[編集]

2009-09-26 01:55:37UTCの編集について、説明します。それがデイヴィドソンの最終的な立場であるかどうかは分かりませんが、すくなくとも「自分自身の心を知ること」において、デイヴィドソンは、スワンプマンが知識を持つことや、たぶん信念を持つことも否定しているように見えます:

私の複製〔スワンプマン〕は私の友人を見てもそれと分からない。スワンプマンは何を見てもそれと分かる(再認する、recognize)はずがない。なぜならスワンプマンはそもそも何も認知したことがないからである。スワンプマンが私の友人の名前を知っているはずはなく(もちろん、知っているようにはみえるが)、私の家を思い出すこともできない。スワンプマンは、私がたとえば「家」によって意味することを意味できない。なぜなら、スワンプマンが発する「家」という音声は、それに正しい意味を-否、そもそもいかなる意味も-与えるようなコンテキストの中では学ばれてはいないからである。それどころか、私には、スワンプマンがそもそも何かを意味するとか、何かを考えるとか言えるとは思われない。

— ドナルド・デイヴィドソン、清塚邦彦(翻訳)、柏端達也(翻訳)、篠原成彦(翻訳)

、『主観的、間主観的、客観的』(春秋社、2007年4月、ISBN 978-4393323076)41項。〔〕内はmizusumashiによる

知識を否定するのは「私の友人の名前」に限った話ではないでしょうし、何を考えるとかいえないのは、信念を欠いているからでしょう。<ref></ ref>内の説明は、上記引用部分を踏まえて、私の言葉でその理由を書きましたが、除去してくださっても結構です。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年9月26日 (土) 02:18 (UTC)[返信]

失礼ながら脚注が非常にわかりにくかったので、ノートがあって助かりました。 「因果関係」という言葉は果たしてこの場合適切かどうか疑問です。「経験」程度がわかりやすいのではないでしょうか。 「たとえ原子レベルで同一であり見かけの振る舞いも同一に見えたとしても、スワンプマンには経験に基づく理解や知識があると見なすことはできない」という意味ですね。たぶん物理学者に言わせれば「原子レベルで同じなら経験したことも含めてのコピーと言わざるをえない」気がしますが。 mizusumashi様のオリジナルを活かしつつ脚注を書き換えさせていただきました。問題があれば戻してください。--