ノート:サフィエ・スルタン

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サフィエ・スルタンはセシリア・バッフォではない[編集]

英語版の『サフィエ・スルタン』をお読みになってから作成したかどうか定かでありませんが、英語版ではサフィエ・スルタンはアルバニア系の女性とあります。セシリア・バッフォは『ヌール・バヌ』(Nur-Banu)として掲載されています。サフィエ・スルタンとヌール・バヌは、全く生きた時代が違います。単純に間違えたとも考えにくいですね。--61.45.50.21 2007年8月3日 (金) 00:33 (UTC)[返信]

 全く生きた時代が違うと書きましたが訂正します。ヌール・バヌはセリム2世の妻の一人だったわけで、サフィエ・スルタンとは嫁姑関係となるわけですね。そのセリム2世の英語版でも、ヌール・バヌをヴェネツィア人のセシリア・バッフォ(イタリア語ではチェチーリア・バッフォとなります)と記載してあります。--61.45.50.21 2007年8月3日 (金) 00:41 (UTC)[返信]

 「セシリア・バッフォ」とは一体誰のことでしょう? ヴェネツィア出身の「チェチーリア・バッフォ」であれば、ヌール・バヌの本名だし、サフィエ・スルタンの本名は「ソフィア・バッフォ」ですから、混乱を生じているとしか思われません。よく諸書を調べてから責任を以て訂正した頂きたいものです。 よろしく。 --124.255.18.4 2008年10月17日 (金) 06:07 -ノート履歴に従って投稿者並びに投稿時間を追記。--203.148.123.213 2008年10月17日 (金) 09:46 (UTC)[返信]

今だ整理がなされていない本記事ですが、トルコ語版のSafiye Sultanが一番詳しいと思うもののトルコ語に詳しい方の手を借りないと真偽のほどが定かでない部分がけっこうあります。映画『ラスト・ハーレム』を鵜呑みにして記事を書いたとしたらこれも大きな間違いです。また、2008年12月16日現在のところイタリア語版にはサフィエの記事が存在しておりません。ヌール・バヌについては、塩野七生氏の『海の都の物語-ヴェネツィア共和国の一千年』の第7話「ヴェネツィアの女」に書かれていますので、日本語文献で読むことができます。
  1. ヌール・バヌとの不仲 - 英語版Safiye Sultanに書いてありませんでしたので、削除しました。同じヴェネツィア出身の義母と、『ヴェネツィア大使と連絡を取り合っていることが不服であった』ことを理由に不仲になるのは矛盾しています。ヌール・バヌ自身、ヴェネツィア大使と連絡を取り合って故国に便宜を図っていたんだし。よって、削除しました。どうしても不仲を付け加えたいのなら、出典元も明記して欲しいです。
  2. カトリーヌ・ド・メディシス(1589年没)と連絡を取り合っていた - これは英語版のNur Banuに、ヌール・バヌ自身がやっていたこととして明記されてました。サフィエの記事にはありません。よって削除しました。
  3. サフィエの生んだ皇子皇女の名前 - トルコ語版III. Muratに、ムラト3世の子女について、誰がどの妾妃の子かなんて丁寧に書いてありません。日本語版でも、ムラト3世の妻妾の人数40人、子供の数は『100人以上』という推測の記述で載ってますけど名前まではさすがになし。よって削除しました(妻妾の生んだ子は、その母親の身分に関係なく皇帝の子として平等だったし、妾は一生奴隷だったから名前が残らなくても不思議はないのかもしれません)。明記するのであれば、参考文献の明記も必要です。

まだつっこみと訂正しがいがありそうですが、今日はこのところで。告知テンプレ貼って1年も解決されていなかったし、初版投稿者が直す気配もないし、はがしました。--61.205.210.253 2008年12月16日 (火) 14:24 (UTC)[返信]