ノート:クメール・ルージュ

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「また、同党がカンボジアの実権を握っていた1975-1979年に起こした虐殺をさす場合もある。[要出典]

と、有りますが この記事の下のほうに「クメール・ルージュ特別法廷」と言う項目が有りますが この裁判は 「クメール・ルージュによる自国民大虐殺、人道に対する罪などで元指導者達を裁く特別法廷」の筈です。 だとするならば 「クメール・ルージュによる自国民大虐殺事件」≒「クメール・ルージュ」として 問題が無い様に思われますがいかがでしょうか? --222.227.232.37 2008年5月30日 (金) 19:20 (UTC)[返信]

康生とポル・ポトとの関係に関する疑問点[編集]

本文の中に「党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトをして「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」と賞賛した」とあるのですが、出典をつけてもらえないでしょうか。英文のウィキペディアの記事を少したぐって見たのですが、調べた限りではそこからの由来ではなかったようです。また、B.KiernanのThe Pol Pot Regime(third edition)p.126には、"Interestingly, at the time of his visit, the person in the CCP responsible for relationships with communist parties in other counrties was Kang Sheng, and Pol Pot probably worked with him more closely than any other Chinese leader. Sheng has been called "a truly faithful follower of Mao", though he had worked as a Comintern official and lived in Moskow at the height of Stalinist purges, from 1932 to 1937."と書かれていて、ポル・ポトではなく、むしろ康生(Kang Sheng)のほうが毛沢東の真に忠実な実践者であると呼ばれていたことになります。私は文革関連についてはド素人なので、B.Kiernanの記述が一般的に受容されているものかどうかも知りませんし、また、中国側の資料で康生がポル・ポトをそのように呼んだという事実があるのかどうかも知りません。単純に、B.Kiernanの文章から見て、訳し間違えた記述が書かれているのではないかと気になっただけなのですが。どなたかご存知の方は出典をお願いします。--亜顎十郎 2010年2月18日 (木) 17:18 (UTC)[返信]

すみません該当部分を書いた者ですが、一次資料には当たっていません。二次資料としての出典は橋田信介『戦場の黄色いタンポポ』ISBN 4101165513 です。 −−ネオ筑摩屋松坊堂 2010年5月8日 (土) 10:23 (UTC)(user:chikumaya

再リンクとしての民主カンプチア[編集]

以前、ポル・ポト派を当項目にリンクし直したのですが、民主カンプチアにリンクし直すべき項目がありそうです。地道にやりますが、草取り者いませんか?0null0会話2016年7月18日 (月) 11:43 (UTC)[返信]

「カンボジア特別法廷」項の注釈を削除しました[編集]

数年前に付け加えられた記述だったようですが、注釈としては明らかにそぐわない独自研究的な内容で、出典で添えられていた新聞記事も著作権的に怪しいソース元であったため、全て削りました。--240F:79:9287:1:F020:84EA:FF01:E3F4 2024年4月27日 (土) 02:19 (UTC)[返信]